私がバイオグラフィーワークに出会った日
バイオグラフィーワークという言葉を初めて知った時、最初の疑問は「バイオグラフィーワークってなに?」「なにをするの?」でした。2000年10月のことです。オイリュトミー仲間から回ってきた小さなチラシには、自分の「生の軌跡」を使ってワークする、と書かれていたことをおぼろげながら覚えています。そうはいっても、正直なところ、一体それが何なのかはよくわかりません。けれど私が参加してみようと思った背景には、その日が奇しくも夫の三回目の命日であった、ということでした。
日本で初めてバイオグラフィーワークの一歩が記されたその日は、あとになってみれば、私にとっても大きな人生の転換点となったのです。
私は48歳の時に夫(享年52)を見送りましたが、その当時、3人の子どもたちはまだ10代、末っ子は小学校6年生でした。途方に暮れている暇はありません。それまであまり意識していなかったものの、一人になって、どれほど自分が防波堤の中で守られていたか、ということがよく分かりました。怒涛の日々はまだまだ続き、間もなく実家の母が倒れ、介護生活が始まりました。私にとっての人生の荒波は、休むことはありませんでした。「あれだけやったのに、神様はまだ私にやれって言うの?」「私はなんのためにこういうことをしているの?」夫の命日という大きな人生の節目、そして次々と押し寄せる困難から生じる「人生への問い」が、自ずとバイオグラフィーワークに向かわせたのでしょう。
名古屋市昭和区にある保育園の一室、夕方からの開始にもかかわらず20人ほどが集まりました。その時の私の印象は、そのワークの中にいて、自分がとても自然でいられたということでした。何の無理もなく、言いたくないことは言わなくてもいいし、描いた一場面の説明を客観的に話していくことは、夫を亡くしてからの3年間にかなり訓練されていたのかもしれませんが、その普通さに何とも言えない魅力を感じたのです。
バイオグラフィーワークは、アントロポゾフィー(人智学)の実践という意味から、劇的な変化とか、簡単な癒しでないことは十分わかっているつもりでしたが、思っていた以上に地道で静かなワークでした。その翌年、バイオグラフィーワーカーの養成コースが、日本で初めて開かれるというニュースを友人からもたらされた時、私は困難な環境の中にいました。なぜなら母の遠隔介護は深刻さを増していたからです。それでも人生の波は、むしろ私の背中を押し、私は養成コースの1期生となりました。
バイオグラフィーワークでなにをする?
バイオグラフィーワークは、 基本的に少人数の固定されたメンバーで、各々の人生の軌跡~ライフストーリーをもとに、対話や芸術体験、植物観察などを通して、人生や世界に対する新しいまなざしを育てていきます。
「生の軌跡」は、シュタイナーの成長の原型に沿って七年毎のリズムを刻みます。0歳から7歳までを第1七年期、7歳から14歳までを第2七年期、人生の長さに合わせてそれぞれの七年期には人間の成長の段階があり、ふさわしいテーマがあります。
メモリーアートワークでは、その七年期をもとに、ファシリテーターが出すテーマから、自分の人生の出来事の中にある一場面を選びます。描画のマテリアルはテーマにふさわしいものが選ばれ、クレヨンや水彩、パステル、あるいは粘土を使って造形をします。それらを通して、過去の記憶の中にある出来事に、それまでとは全く異なる角度から光が当てられていきます。
さらに重要になってくるのが、そのグループの中で共有される対話です。私が初めてバイオグラフィーワークで体験した時のように、何の無理もなく、自然で、ゆっくりと進められます。一人ひとりの人生の経験の中に、存在の意味を問う「自己教育のプロセス」それこそがバイオグラフィーワークなのです。
バイオグラフィーワークを体験したい
覚悟を決めてチャレンジ