八ケ岳へ一人移住(3)

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八ケ岳へ一人移住(2)

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八ケ岳へ一人で移住(1)

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初めての冬

 

 八ヶ岳南麓に住み始めてほぼ2か月が経ちました。といっても毎月、愛知へ戻っているので、3分の2がこっち、というところでしょうか。ウィンタースポーツが特に好きでも得意でもない私が、わざわざ厳しい冬を選んで山暮らしを始めたのは、単なる成り行きですが、意味づけするとしたら、冬を越せたら、あとは怖いものなしということで、楽観的な資質を大いに使って飛び込んだ初めての冬です。

 

 標高1250Mの高原の冬は、寒さが厳しいのは当然ながら、晴天率が高く、空気が澄んで気温が低い。雪は決して多くないけれど、降るとそのあとほぼ凍るので、階段に積もった雪はすぐさま除けておかないと危険です。ある朝、あんまり寒いのでひょいと温度計を見ると、氷点下7度を指していたときには、さすがにのけぞりました。室内なのに!です。バスルームのドアが凍って開かないばかりか、シャワーの水栓具が凍って動かないとか、水滴が氷の柱になっていたり、しばらく留守をして戻ってくると、花瓶が割れている!ん?よく見れば、花瓶の中の水が、花瓶の形に凍っている。割れたのは水が凍って膨張したためだったのです。バナナが完熟していると思いきや、皮をむいてみると熟したのではなく、あまりの低温で皮が黒くなっていただけだったり、オリーブオイルが凍って半固体になってしまったり、これまで経験したことのない次元の違う寒さに、少々へこたれる日もありますが、そこは持ち前の呑気さで、面白がることにしています。

 

「今週のクロイツ」にも書いているように、寒い日にはストーブのスイッチを入れる前に、まず自家発電を目指して身体を動かすとか、日が落ちると、辺りはもう真っ暗だし、起きていると寒いので早く眠るとか、実際、薪割りだの枝集めや松ぼっくり拾いだの、身体を動かさずには生活ができないことも多く、疲れ果てて眠くなってしまうので、ある意味、以前よりずっと健康的なのが、山の暮らしです。

 

 散歩コースは、林を抜け池の縁を歩き小高い丘に上ります。東には八ヶ岳…といっても南麓なので、編笠山(2524m)の丸く雪を被ったてっぺんが見えるだけですが、西には南アルプスが開けて、朝から大音量で交響曲が鳴り響いているかのような風景が広がっています。雪の尾根が光り輝く鋸岳や甲斐駒が恐ろしいほどくっきりと迫って見える日もあれば、雲に隠れて全く姿を現さない日もありますが、どんな風景もご褒美のようなもの。まさに冬ならではです。

 

 うれしいことの一つに、周辺にはヤドリギが多く、白樺や桜、ズミの木に、大小さまざまなヤドリギを見ることができます。私が育った伊勢では、ヤドリギをつけた木の下を通って学校へ通った記憶があるので、ヤドリギを見るとなんだかとても懐かしい気持ちになるのです。自然界が冬眠するこの時期に花を咲かせ実をつけるヤドリギは、冬だからこそ遠くからでもよく目立ちます。アントロポゾフィー医学ではヤドリギ療法として、がん治療に用いられることはよく知られていますが、冬、神秘の植物ヤドリギを間近に見ることのできる幸運に胸が躍ります。

 

 2月も終わりに近づくと、気温は低くても日に日に明るくなり日差しも強くなります。ほんの少し前までは、秋に降り積もったラーチの葉をめくっても霜柱しか見えなかったのに、今ではそこここに緑の褥が広がる予兆が潜んでいます。暮らすには少々厳しい高原の冬ですが、冬から春へ、そして夏、秋、また巡ってくる冬を、私は何回、楽しませてもらえるでしょうか。

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山暮らしはじめました

 

 八ヶ岳南麓に住まいを移してから一か月が経ちました。と言っても、その間、半分は愛知に戻っていましたので、ちょうど半々、山暮らしは超初心者のままです。それでも不思議なことに、最初はあんなに冷え切っていた家が、息づいたように暖かくなり、ブスブスと煙っていた薪ストーブも今ではご機嫌に家を暖めてくれています。急場しのぎで作った鳥の餌箱は今も健在。夜明けを待ちかねて小鳥たちが代わる代わる訪れます。今年一番の雪の朝、まばゆいほどの銀世界となりました。心が洗われるというのはこういうことを言うのでしょう。

 

 薪ストーブの前で、揺らめく炎を見ながら柔らかな午後の日差しについ微睡んでしまう。目覚めたとき、自分があまりに幸福に満たされていて、急に罪悪感に襲われました。私、こんなに幸せでいいのかな。こんなに楽しくていいのかしら。今、世界中が抱えている問題から、自分がまるで乖離しているようで…。でもでも、すぐに思い直しました。これは今という瞬間、うれしいときに微笑むことのどこが罪なのか、と。

* * *

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 明石の鯛が食べたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 朝日の射す明るい
台所がほしいと

すりきれた靴は あっさりと捨て
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばし味わいたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで 送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
思い込んでしまった村と町
家々のひさしは 上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背を伸ばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに 土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣り道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ 伊勢の海も見ていないと

女が欲しければ奪うのもいいのだ
男が欲しければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ
茨木のり子「もっと強く」第1詩集『対話』より
* * *
 時々自分に問いかけます。いったい人間というものは、幸福というものに指がかかると不意に不安になるのはなぜ?その指を自ら外したほうが安心だったりもします。決して安穏と至福を貪っているわけでもないのに、突然、浚われて失うのではないかという恐怖。それならば初めから期待しなければ、がっかりすることもないでしょう、と。
 でも本当にそうなのかしら。ほしい物はほしいと言って、その責任を引き受ければいい。
 自分はこの程度と、道半ばで手放したり、幸福を半分に留めておいたりする必要はないのです
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八ケ岳へ一人移住(3)

  移住を実現化するため、次に取り掛かったのは、八ケ岳周辺の諏訪圏域から北杜市小淵沢辺りまでの、定住可能なリゾートマンション、〇〇リゾート、〇〇の森、〇〇ビレッジ等々、管理別荘地の中古別荘、地元の不動産業者が扱っている中古住宅、古民家まで、検索に引っかかってくるサイトを手あたり次第、片っ端から見ていった。

 

ところがなかなかイメージがつかめない。

画面上の物件に、自分が住む絵が描けない。

 

 本来なら予算、物件の広さ、築年数、管理費用等々、条件に合致する物件をリストアップするべきなのだろうけど、初心者ゆえよくわからない。いろいろ見たり聞いたり、情報を集めていくうちに、わかってくるだろうと、とにかく運命の終の棲家を見つけるべく、内覧の申し込みをし、案内してもらい、自分のイメージが固まっていくはずだったのだけれど、見れば見るほど、徐々に自分がどんな家を探しているのか、分からなくなってしまう。目の前に現れる家は千差万別。とても綺麗でかっこよくて築浅だけれど、舗装道路から外れて坂道を延々と上ったところにあるログハウス、湖が近くて眺めもいい。でもなんだか暗い家、キッチンになぜか提灯がいっぱい並んでいて、お店?みたいな家、間取りが定住向けではない家、手入れの行き届いている家から、お皿が洗い桶に入ったまんまの家まで、それはもう混乱の極み。何回目かの内覧後、徒労感に落ち込んでいる私を見て、娘が言った。

ママにとって、何がいいかは分からないけれど、何が嫌なのかが分かったよ。

中古物件だもの、気に入らないところはどんな家にもあるのは当たり前でしょ。そろそろ、ここだけは譲れないという最低条件をリストアップして、あとは自分にとって重要かどうかを見極めるようにしたらいいんじゃない。

 

その頃にはすでに20件ほどの物件を見ており、目も慣れて、世間の相場とか、押さえどころとか、地域や築年数での金額設定など、そこそこ把握できるようになっていた。だからこそ、なかなかしっくりくる家に出会えないことに苛立ちもしていたのだけれど。なんと言っても70歳を越えた私が一人で住むには、若夫婦が移住するのとは違う最低条件があるのだ。まさしくその通りだと、ちょっと頭をがんとやられた気分で、リストを整理をしてみた。

 

*地域は山梨か、長野か=やっぱり馴染みがある長野県。

*価格と築年数は相関関係にあるから、予算の上限を明確にする。

*標高は1200m以上が望ましい…1000mくらいだと夏は空気が重い。寒いより暑いのが辛い。

*となると、別荘地。かつ年齢や男手のないことを考えると管理別荘地。

*後々を考えると、土地は借地権ではなく所有権。

*雪かきを考えると幹線道路からあまり奥まっていないほうがいい。 

*家の広さは30坪程度はほしい。

*土地はそこまで広くなくてもよい

*道路から敷地に入るのに段差がない

*車が複数台停められる

*JR中央線の特急停車駅からタクシーで来られる

*高速道路のインターが近い

*暖炉(薪ストーブ)があればうれしい

*近くに温泉があればなおいい。

 

 整理したとたんに、新着物件としてサイトに上がってきたのがこの家だった。

こんなことってある?

あったのです。

私がリストアップした条件をすべてクリア!!!

 

めでたく、私は、私の家と出会えたのです。

 

八ケ岳へ一人移住(2)

  

 いずれ忘れてしまうだろうから、今のうちに書いておこう。

 移住への思いを決意する半年前の秋、かつて家族で毎夏を過ごした山荘の近くに、東山魁夷の絵のモチーフになった御射鹿池があることに気づき、急にこみあげてきた懐かしさに誘われるように蓼科に向かった。10年ぶりのことだった。そしてその短い秋の間に、なんと私は3回も蓼科に行った。家族で過ごした蓼科、八ケ岳、この時の風景や印象は、やがて移住先を決める際の苗床になったと思う。ブログ「みたび蓼科

 それでも、物事は一直線には進まない。日々の生活はあるし仕事もある。差し迫って引越しをしなければならない理由はないのだから、優先順位を高く保つのはなかなか難しい。ほとんど「引越するする詐欺」になりかけていたとき、1年ぶりに訪れた八ヶ岳の麓、原村の小さなカフェで、移住してきた人たちとの語らいの中、ふとシェアハウスの案内に目が止まり心が動いた。

 

 シェアハウスか...お試しにどうだろう。行くなら一年で最も寒い時だよね。その季節を好きになれたら、山暮らしは可能だろうし。ところでカレンダーを見ると、せいぜい4日くらいしか、家を空けられない。思えば結構、仕事が詰まってたんだ、と思う。そんなので移住なんてできる?いやいや、でもずるずるしてると、実現から遠ざかる。

 

 年が改まり、2019年2月節分、雪に埋もれた原村へいざ!!

 

 結果は見事惨敗。

 まずシェアハウスは無理と分かる。若い時ならいざ知らず、もう心も体も思いっきり我儘になっているし、快適さの幅がめちゃくちゃ狭くなってしまっていることに改めて愕然とする。人と歩調を合わせるのは辛い。狭いのも辛い。元々人に気を遣う方だから、人といると疲れる。なんせおひとり様生活のプロだもの。

 それにしても案外平気だったのが寒さだった。寒さなんて吹っ飛んでしまうくらい世界が美しい。

 こうなったら、リゾートマンション、中古別荘で探してみよう。暖かくなったら活動開始。 

八ケ岳へ一人で移住(1)

  

 70代、一人暮らし、知らない土地、厳しい寒さ、交通不便、という、高齢者がしてはいけない転居禁止事項をすべて無視した私の移住は、周りから驚きと批判をもって見られたり、逆に喝采を受けたりもしたけれど、今のところ、この移住は大成功。今のところ、悪いことは一つもない。振り返ると家族から転居を勧める話が出たのは3.11の後、それは古い家に一人暮らしをしている私の身を心配してのことだったのだけれど。さらにいえば、夫を亡くしたころ、山ふところに住みたいという衝動が起こり(明らかに逃避だったけれど)、そのときは子どもたちもまだ幼く、両親も健在で、住まいは家族のホームとして機能していることが必要だったから、その場所を動くことは現実的ではなかった。

 

 息子夫婦が名古屋市内の、便利でなおかつ自然に恵まれたところにあるマンションに住み始めたとき、かなり刺激を受けて、同様の条件を持つマンションをいくつも見たけれど、結局、具体的に動き始めてみると、いろいろと思うところもあり、そうこうしているうちに気持ちも萎え、面倒くさくなってしまったのだった。

 

 ブログ「人生の転換点」にも書いたけれど、2018年の初夏、バイオグラフィーワーカー養成コースで人生の鏡映関係がテーマで、21歳を基点とした自分のチャートを何気なく眺めていると、突然、雷に打たれたような衝撃が走った。15歳、27歳、48歳と、私自身の人生の大きな変化の時が直線上に美しく並んでいて、その延長線上に「現在」があったからだ。今まで、私は何を見ていたのだろう。人生の晩年に向けて、もうぼやぼやしていられないと、気持ちが定まった瞬間だった。 

 

初めての冬

 

 八ヶ岳南麓に住み始めてほぼ2か月が経ちました。といっても毎月、愛知へ戻っているので、3分の2がこっち、というところでしょうか。ウィンタースポーツが特に好きでも得意でもない私が、わざわざ厳しい冬を選んで山暮らしを始めたのは、単なる成り行きですが、意味づけするとしたら、冬を越せたら、あとは怖いものなしということで、楽観的な資質を大いに使って飛び込んだ初めての冬です。

 

 標高1250Mの高原の冬は、寒さが厳しいのは当然ながら、晴天率が高く、空気が澄んで気温が低い。雪は決して多くないけれど、降るとそのあとほぼ凍るので、階段に積もった雪はすぐさま除けておかないと危険です。ある朝、あんまり寒いのでひょいと温度計を見ると、氷点下7度を指していたときには、さすがにのけぞりました。室内なのに!です。バスルームのドアが凍って開かないばかりか、シャワーの水栓具が凍って動かないとか、水滴が氷の柱になっていたり、しばらく留守をして戻ってくると、花瓶が割れている!ん?よく見れば、花瓶の中の水が、花瓶の形に凍っている。割れたのは水が凍って膨張したためだったのです。バナナが完熟していると思いきや、皮をむいてみると熟したのではなく、あまりの低温で皮が黒くなっていただけだったり、オリーブオイルが凍って半固体になってしまったり、これまで経験したことのない次元の違う寒さに、少々へこたれる日もありますが、そこは持ち前の呑気さで、面白がることにしています。

 

「今週のクロイツ」にも書いているように、寒い日にはストーブのスイッチを入れる前に、まず自家発電を目指して身体を動かすとか、日が落ちると、辺りはもう真っ暗だし、起きていると寒いので早く眠るとか、実際、薪割りだの枝集めや松ぼっくり拾いだの、身体を動かさずには生活ができないことも多く、疲れ果てて眠くなってしまうので、ある意味、以前よりずっと健康的なのが、山の暮らしです。

 

 散歩コースは、林を抜け池の縁を歩き小高い丘に上ります。東には八ヶ岳…といっても南麓なので、編笠山(2524m)の丸く雪を被ったてっぺんが見えるだけですが、西には南アルプスが開けて、朝から大音量で交響曲が鳴り響いているかのような風景が広がっています。雪の尾根が光り輝く鋸岳や甲斐駒が恐ろしいほどくっきりと迫って見える日もあれば、雲に隠れて全く姿を現さない日もありますが、どんな風景もご褒美のようなもの。まさに冬ならではです。

 

 うれしいことの一つに、周辺にはヤドリギが多く、白樺や桜、ズミの木に、大小さまざまなヤドリギを見ることができます。私が育った伊勢では、ヤドリギをつけた木の下を通って学校へ通った記憶があるので、ヤドリギを見るとなんだかとても懐かしい気持ちになるのです。自然界が冬眠するこの時期に花を咲かせ実をつけるヤドリギは、冬だからこそ遠くからでもよく目立ちます。アントロポゾフィー医学ではヤドリギ療法として、がん治療に用いられることはよく知られていますが、冬、神秘の植物ヤドリギを間近に見ることのできる幸運に胸が躍ります。

 

 2月も終わりに近づくと、気温は低くても日に日に明るくなり日差しも強くなります。ほんの少し前までは、秋に降り積もったラーチの葉をめくっても霜柱しか見えなかったのに、今ではそこここに緑の褥が広がる予兆が潜んでいます。暮らすには少々厳しい高原の冬ですが、冬から春へ、そして夏、秋、また巡ってくる冬を、私は何回、楽しませてもらえるでしょうか。

山暮らしはじめました

 

 八ヶ岳南麓に住まいを移してから一か月が経ちました。と言っても、その間、半分は愛知に戻っていましたので、ちょうど半々、山暮らしは超初心者のままです。それでも不思議なことに、最初はあんなに冷え切っていた家が、息づいたように暖かくなり、ブスブスと煙っていた薪ストーブも今ではご機嫌に家を暖めてくれています。急場しのぎで作った鳥の餌箱は今も健在。夜明けを待ちかねて小鳥たちが代わる代わる訪れます。今年一番の雪の朝、まばゆいほどの銀世界となりました。心が洗われるというのはこういうことを言うのでしょう。

 

 薪ストーブの前で、揺らめく炎を見ながら柔らかな午後の日差しについ微睡んでしまう。目覚めたとき、自分があまりに幸福に満たされていて、急に罪悪感に襲われました。私、こんなに幸せでいいのかな。こんなに楽しくていいのかしら。今、世界中が抱えている問題から、自分がまるで乖離しているようで…。でもでも、すぐに思い直しました。これは今という瞬間、うれしいときに微笑むことのどこが罪なのか、と。

* * *

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 明石の鯛が食べたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 朝日の射す明るい
台所がほしいと

すりきれた靴は あっさりと捨て
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばし味わいたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで 送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
思い込んでしまった村と町
家々のひさしは 上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背を伸ばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに 土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣り道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ 伊勢の海も見ていないと

女が欲しければ奪うのもいいのだ
男が欲しければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ
茨木のり子「もっと強く」第1詩集『対話』より
* * *
 時々自分に問いかけます。いったい人間というものは、幸福というものに指がかかると不意に不安になるのはなぜ?その指を自ら外したほうが安心だったりもします。決して安穏と至福を貪っているわけでもないのに、突然、浚われて失うのではないかという恐怖。それならば初めから期待しなければ、がっかりすることもないでしょう、と。
 でも本当にそうなのかしら。ほしい物はほしいと言って、その責任を引き受ければいい。
 自分はこの程度と、道半ばで手放したり、幸福を半分に留めておいたりする必要はないのです

人生の転換点

 

 もう10数年前のこと。既に廃刊になってしまったけれど、毎月発行のアントロ関係の情報誌の巻頭頁に、小文を書いていた時期があった。連載の最終回、私はこんなことを書いた。

 

 

 空が明るい。夕映えの時間が少しずつ長くなっている。ほんの数週間前は、日が落ちるとあっという間に夜になったものだが、いつしか光は春を孕み、冬枯れた木立さえも、今では燃え立つ炎のようだ。空も大地も樹木も目覚め、鳥たちが旅立つ日も近い。胸躍る春の幕がもうすぐ開く。

 

 年の初め、日頃離れて暮らす家族が帰ってきた。無人だった子どもたちの部屋にあかりが灯り、大人になった彼らの足音が家中に響き渡る。昔のように笑い声が充満して、若い息吹に心は浮き立つけれど、気楽な独り暮しから、母親に戻るのは年々億劫になってきた。潮が引くように彼らが去ると、華やぎは薄れ、静けさは重く澱んでいくが、それも悪くない。波のように来ては去る。人の往来、季節のめぐり。その繰り返しをずっと同じ場所から見ていたい。新しい春もまた、私はここでずっと見ていよう。

 

 
 同じ場所で、動くものをずっと見ていると、自分が動いていては見えなかったものが見えてくる。当時、私は50代後半、自分のことを「港」のように感じていた。けれど70代になった今、あの頃に立っていた場所からは見えなかったものが見える地点にやってきた。「年齢」という新たな「霊的な器官」は、60代半ばくらいから急にはっきり自覚できるようになった。
 
2年前の初夏、バイオグラフィーワークでは、「21の鏡(Vチャート)」とよんでいる、ミラーリングの自分のチャートを、なんとなく、ぼんやり眺めていた。すると不意に人生の転換点が、15歳、27歳、48歳と、美しく真横に並んでいるさまが浮かび上がってきて、そして何よりもその延長線が、まぎれもなく「今」を指していることに私は慄いた。
 
 それまでの私の転換点は、自分から、というより外からやってきた。否応なくやってくる様々なことを、案外素直に「はい」と受け取ってきたように思う。そのおかげでいろんな経験をさせてもらったし、きっと能力も開発されたに違いない。で、これからもそれでいいのだろうか、と思った。いやいや、そろそろ自分から転換点を生み出そうよ、私。そう思って決めたのが、一生に一度くらい自分が住みたいところに住んでみようということだった。思えば生まれてこの方、純粋に自分だけの意志で、ここに住みたいと思って住処を決めたことはなかった。
 
 物理的年齢から言えば、便利のいいところに住み替えるというのが当たり前かもしれない。それに対して思いっきり反対路線だ。さて、これが今後の私の人生にどんな影響を及ぼすのだろう。なんせ温暖な伊勢で生まれ育った私は、暑さも寒さもほどほどがベース。標高の高い山の暮らしを始めるには、最も厳しい季節ではないだろうか。あまりの寒さにシッポを巻いて逃げ帰るかもしれないけれど、この冬が乗り越えられたら、もう恐いものなし! 試すだけの価値はある。「港」から出ていく古びた小舟、40年近く住んだ愛しい我が家、家族の歴史、思い出がいっぱい詰まった、この場所を離れてでも。
   
関連エントリー 春のクロイツニュース  

身体の傷は心の傷?

 

私は痒いのが、超がつくほど苦手。

だから虫刺されにめっぽう弱い。

蚊に刺されると、アレルギーを起こすのか

刺されてもいないところまで赤くなる。

夏は、いつも、どこかをポリポリ掻いている。

 

そんな私に、

 

ひどく刺されたね。

 

いや、これって刺されたわけじゃなくって

反応して、増えてしまうのですよ。

小さい時から蕁麻疹っ子だったから

肌が覚えているのでしょうね。

 

肌にトラウマを持ってるってことなのかしら。

と言いながら、ハッと気づいた。

 

誰に、何の、言い訳をしてるんだ 私は。

 

 

それなら、なぜスターオブべツレヘムと

クラブアップルを飲まないの?

 

頭ではわかっていたのに、アクションにつなげていなかった。

 

 

慌てて、その日から飲み始めました。

身体が覚えてしまっているかゆみへの過剰反応。

その必要はないのに、そこにこだわり続けていた私。

無意味な記憶の上書き保存。

 

あら不思議

 

ピタリと止まりました。

新たな赤み

もう発現してこない。

あれは心の傷だったということか。

 

恐るべし

バッチフラワー!!

 

 

70歳のひとりごと(3)

 

外出自粛のおかげで家が片付く。

 

部屋の隅にずっと置き忘れていた箱を開けたら

出てくる出てくる

手紙の束、

あの箱もこの箱も手紙の山

よくぞ、これだけ取ってあった。

 

これだけもらっているということは

自分も同じくらい書いていたに違いない。

 

心のこもった手紙、

書いている人のまなざしが浮かぶ手紙、

もうこの世を去った母からの手紙。

 

それにしても、私、いつから手紙を書かなくなってしまったのだろう。

日付はほとんど古いものばかり。

ここ20年位ですっかり通信手段が変わってしまった。

 

ふと思う。もし私がいなくなって

こんな手紙が残されていたら、家族が困る。

そう思うと、忍びないけれど、自分で始末するしかない。

 

ありがとう。さようなら。

優しい気持ちだけを残して。

 

 

 

70歳のひとりごと・3

柔らかだったオーク(欧州ナラ)の葉がずいぶんしっかりしてきました。受粉した雌花がドングリになりかけてます

70歳のひとりごと(2)

 

世界中が緊張に包まれているけれど、この瞬間にも、生まれてくる命がある。

 

歴史を振り返れば、戦時中にも同じことが言えたのだろう。

なぜ人は、選んだかのようにその時代に、生まれてくるのかしら。

 

詩人茨木のり子さんは二十歳に敗戦を迎えた。

「わたしがいちばんきれいだったとき」という詩は

もし彼女が中学生で敗戦を迎えていたら、生まれなかったはず。

 

そう思うと、人が生きる目的と時代は、

否応なく結びついていると思わざるを得ない。

 

同様に70歳の私が、COVID-19によって経験している「今」と

こどもたち、そして進学や就職で、新しい世界に出て行く若者たちが

経験している「今」は、おそらくちがう。

 

私のあしたは、若者と比べるまでもなく、短い。

食料も、マスクの数もトイレットペーパーだって一人分。

第一、あまり心配もしていない。外出自粛も苦ではない。

けれど、もし、私に育ち盛りの子どもがいたら、

どんなに不安なことだろう。

身の安全もさることながら、教育、経済、この先いったいどうなっていくのだろうと。

 

人と人が分断され、

世界中の人々が「境域に立つ」経験をしている。

いまだ、その全容は見えてこないけれど、

この危機の背後に何が待っているのか。

それはいつになったら現われてくるのか。

新しい意識、価値観、生き方...

それをちゃんとキャッチできるだろうか。

そのためには、十分に目覚めて、準備をしなくてはならない。

 

私に何ができるだろう。

 

わからない。

 

けれど、きっと、

こうして考えることが大切なのだと思う。

 

 

刻々と季節が移っていく。

オークの雌花が美しい。秋には実を結ぶ。 

70歳のひとりごと(1)

 

昨年の夏、私は70歳になった。

 

だからもう「アラ7」というよりも、立派な70代だけれど、まだまだ70代は初心者なので、老いのあれこれ、だからこそ日々出会う発見を、忘れないように書いておこうと思う。

 

あれっ、いつの間にか年下ばっかり、

と気づいたのは30代後半だったかな。

 

それでもその頃に出会ったアントロの世界には、年上の凄い人たちがいっぱいいたから、まだまだと甘えていられた。ところが、いつの間にか、自分が自分の親の年代になり、それどころか、すでに祖母の年代になっている、と気づかされるのに、さほどの時間はかからなかった。この間のスピードたるや!!

 

自分の「魂の仕事」に出会うためには、時間のかかる地道な経験が私には必要で、スロースターターだったなあと思うけれど、その分、こうして今もそれがちょっとは役に立っていると思わせてもらえるのは幸運だ。毎日、毎夜、眠りに入っていくときに、今日もいい一日だったなあ、と呟いて身を横たえるように、いい人生だったと永遠の眠りにつけたなら最高だけれど、逆にあがくのもいいかもしれない。それは全く安心して素の人間である自分をさらけ出せるってことだから。

 

とにかく私はとても恵まれている。これからそれをちょっと自慢してみようと思っている。実際、人の幸福な話なんて、絶対に面白くないとは思うけれどね。ふっふ・・・つづく

 

子育ての行方

最近、私の周りでは、ご家族の介護が始まったり、あるいは親世代との別れを経験する方が増えてきました。振り返れば、私自身、50代に入って間もなく実家の両親の介護が始まりましたから、多くの人が50代から60代にかけて、そういう問題と直面せざるを得なくなるのでしょう。

 

私の場合、実家のある伊勢と、自分の住む名古屋を、何度も何度も往復する遠隔介護でしたが、そんな生活が当たり前のようになっていった時、ふと、私の両親にとって、彼らの子育ての行方が、「今の私」に現れているのではないか、と思ったことがありました。


もちろん、私が生まれ、成長していくための条件の中には、私自身の個的なものに加え、時代や土地、文化、社会、環境、親、教育等々があるわけですから、子育ては、親だけの問題ではありません。


でも、養育者、保護者という親の立場から見て、自分の子どもが成長し、何十年も経ったあと、逆に子どもに世話をされる側に立たされたとき、どんな思いを抱くのでしょう。今や自分の保護者、介護者となった子どもの中に、おそらく自分たちの子育ての行方が、垣間見えるにちがいありません。


というのも、私自身が否応なく、年齢の先頭集団に少しずつ、近づいているからです。そして、私が老いていくことに対する、私の子どもたちの思いや言動の端々に、過去には養育者であった、私の在り方・・・つまり子育ての結果からくる、鏡映関係を見ることがあるからです。


いつから私は、親の子育ての影響を引き受けて、自分育てに移行して行ったのでしょう。

 

そんなことを考えていると、原因と結果という、ある種の法則によって、すべての人は生まれ、必要な人と出会い、意図に導かれつつ仕事をし、当たり前のように死んでいけることは、なんて幸せなことなのだろうと思います。



私のペット履歴

6/17(日)は、BFRP東海の特別講座、アニマルプラクティショナーの佐藤真奈美先生をお招きして、愛犬に寄り添うくらし~について、たっぷりお話を伺いました。

 

人間と犬という異種間であっても、家族として暮しを共にするには、どんな努力が必要なのでしょう。動物行動学的アプローチとはまた別の理解の仕方とは、いったいどんなことでしょう。

 

バッチフラワーを使うとき、対話に基いてレメディを選ぶのは、プラクティショナーなら誰でも知っている基本中のキですが、佐藤先生のアプローチは、人と人との間で交わされる対話と同様、人と動物のあいだにも、対話が成立するという地平に立っています。つまりペットも、様々な要因から、不安や怒り、不安定さ等々に陥るとき、そこには必ず意味があり、それが人間にとって問題行動と映ったとしても、まずしっかりとその声を聞き、そして受けとめ、説明すると言ったプロセスを重要視するということです。これはペットに限らず、子育てにも通じる、コミュニケーションの極意なのではないでしょうか。

   *   *   *

 

それにしても、私が小さかった頃(1950年代)と比べると、現代のペット事情は隔世の感があります。当時、犬猫は買うものではなく、貰うとか拾うというのが主流でした。どこの家でも犬たちは、あまり快適ではないところに一日繋がれて、冷ご飯に残り物の味噌汁をぶっかけ、みたいな食事をもらっていたと思います。野良犬も普通にいました。敗戦後、社会は落ち着いたとはいえ、それでも、多くの人々にとって、食べるものに事欠いた記憶は、さほど遠いものではなかったはずです。犬猫はペットというより、番犬、ネズミ捕り、みたいな感じで、家畜に近かったのかもしれません。

 

いつ頃から犬猫はペットになったのでしょう。

確実に言えるのは、以前はもっと短命だった犬や猫が

ペットになってからは長生きになったことです。

 

私は小さい頃、特に犬が好きでした。どこの犬でもすぐに触ろうとして、咬まれたことも二度三度。それでも動物に対する恐怖心に繋がっていないのは、ちょっと面白いと思います。なぜかなあ。そんなことをつらつら考えているうちに、自分のペット履歴を辿ってみようと思い立ちました。

 

 

第1七年期 幼児期

物心ついたときには、猫がいたような...。名前も種類も何も覚えていません。気配のみ。

 

第2七年期前半 犬 雌 雑種 ユリ 外飼い

はっきりと覚えているのは、名古屋の親戚から紀州犬の雑種をもらってきたこと。冬の初め、子犬は父のコートのポケットにすっぽりと納まって、電車に乗って伊勢までやってきました。私は父にくっついて座り、横からポケットに手を突っ込んでは、子犬の感触を楽しみました。どんなに心が弾んだことでしょう。誰が名付けたか、「ユリ」という名前でした。

 

お産もしました。部屋を暗くして段ボールに布を敷いて、、、子犬たちはどうしたのでしょう?全く記憶がありません。知らない間に親がよそへやってしまったのでしょうか。やがてユリはアカラスという皮膚病になりました。赤くなった皮膚を母が洗っては、薬を塗っていたのを覚えています。いつ死んでしまったか、その時私はどうしていたか、全然覚えていません。

 

第2七年期後半 後半 犬 雌 雑種 ジュリ 外飼い

そのあとにやってきたのは、これまた雑種の「ジュリ」でした。ユリも白い犬でしたが、ジュリも白い中型件でした。可愛かったけどやんちゃでよく逃げ出すので、泣きながら探しに走り回りました。ユリに比べると、ジュリはかなりのアンポンタンでした。

 

ある冬の朝のことです。近所のチカちゃんと学校へ向かって歩いていると、いつの間にか逃げ出してきたジュリが、私のあとをついてくるではありませんか。学校までは1時間ほどかかる距離、もうすぐ学校につくというところでしたから、連れて戻ることもできません。「ジュリ、家へお帰り」そういって背を向けて歩き出すと、後ろでなにやら物音がしました。振り返ると、ジュリが「肥溜め」に落ちていました。今ならありえないのですが、当時の農村の風景としては、ごく当たり前に、畑のあちこちに、小さなお風呂ぐらいの「肥溜め」が蓋もされずにあったのです。寒い時期のことですから、表面は固く凍っていたのでしょう。どうやらジュリはその強烈な臭いを発するものに引き寄せられ、上を歩いたようで、中ほどの柔らかいところに来て、ズブズブと嵌り込んでしまったのです。助けるのは、私しかいません。大急ぎで大きな木切れを拾って差し出すと、うまくしがみついて、何とか助け上げることができました。

 

ああっ、プルプルしちゃダメ~~と叫んでも、無駄です。

うううぅぅぅぅ・・・くさ~~い!!(涙)

 

必死にすがりつこうとするジュリを振り切って逃げる私

校庭中を駆け回り、挙句の果てに校長室に逃げ込んだ私は、ジュリに負けず劣らず大バカ者でした。

 

あとはご想像にお任せします。

 

 

第3七年期 十代後半の頃になると、我が家から動物の気配が消えていました。今、思えば、両親は私たち子どものために犬を飼ってくれていたのかもしれません。姉は大学で家を離れ、私は思春期真っ只中、自分のことだけで、精一杯でした。

 

第4七年期 鳥 コキボウシ(インコ)雄

外国航路に乗っていた叔父の家で、キボウシという大型のインコを見て、どうしても欲しくなり、次の航路で通るときにと、おねだりをしました。半年くらい経って、キボウシよりちょっと小型、体長25センチくらいのコキボウシが届きました。

 

全身が鮮やかな緑色の羽で覆われ、肩と頭の上がちょっと黄色くて、おしゃべりが大得意でした。名前は「ワイワイ」と名付けました。私が家にいると、ケージから出たがり、「ワ~イ、ワイ」と呼びかけます。電話のベルが鳴れば、いち早く、モシモシとご挨拶。結構長文もしゃべりました。私の肩の上が定位置で、くちばしで布を挟みながらよじ登ります。左肩から右肩へ行ったり来たり、私はジャングルジムか、という感じでした。おかげで私のTシャツはいつも穴だらけ、膝の上でひっくり返り、お腹を撫でてもらうのも好きでしたから、とてもよくなついていたのだと思います。

 

私が結婚して家を出た後、たまに実家に帰っても、もう以前のように、甘えたりしなくなっていきました。私は裏切り者だったのかもしれません。

 

画像はコンパニオンバード.コムのサイトで見つけて勝手にお借りしてきました。

https://コンパニオンバード.com/ この子、ワイワイにそっくりで、びっくりしました

 

第5七年期 犬 ポインター 雄 外飼い

子どもたちが3歳と1歳になった時、私たち家族はそれまでのマンション暮らしから、大地の上に引っ越しました。引っ越しの翌朝、玄関まで段ボールの山に埋もれているところに、やってきたのがイングリッシュポインターの雄「ビンゴ」でした。血統書付きの犬を飼ったのは、後にも先にもこの一度きりです。正直、このタイミングは最悪でした。ちょっと待って、と言ったのですが、こちらの都合は全く無視されてしまいました。ごめんね、ビンゴ、と今も悔いが残ります。

 

家の中はてんやわんや、子どもたちは小さくて、散歩に同行もできません。あっという間に1か月が過ぎ、2か月が過ぎ、社会性やしつけをする大事な時を逃しました。あるとき、林を夢中で駆けまわっている彼の姿を見て、その美しさにほれぼれしつつ、いたく反省。折よく警察犬のトレーナーの方と知り合い、それからは十分運動はさせてもらえるようになりました。ずっと後になって、ドラマ、ダウントンアビーの狩猟のシーンでは、何匹ものポインターが馬と一緒に野原を駆けまわる姿が出てきます。それを見るにつけ、そう、こんなふうに飼ってほしかったよね~と今も胸が痛みます。

 

第6七年期 犬 雑種 雌 外飼い  猫 亀 鳥

息子が小学校1年生になった時、同級生の親御さんから、犬を拾ったけどもらってくれないか、という話が飛び込んできました。すでに持て余し気味のビンゴがいましたから、無理無理、と断りたかったのですが、子どもたち3人の必死キラキラ瞳に負けて引き受けたのが、私にとっての最後の犬、「ミミ」です。名付け親は長女。冒頭の画像の茶色の雑種です。

 

それからしばらくすると、掃き出し窓の外に、毎日猫がやってくるようになりました。どこかの飼猫らしく、おびえた様子も威嚇するようなこともありません。ある日ドアを開けて話しかけると、スッと家に入ってきました。抱き上げて聞きました。「あなた、どこの子?名前はなあに?」、ふいにゴジャという声が聞こえてきたので、その子は「ゴジャラ」という名前になり、ゴジャラは毎日、息子のベッドで眠るようになりました。

 

また、近くの牧野が池公園では、甲羅がまだぷよぷよの亀を見つけ、うちの亀にしたり、ご近所からセキセイインコをいただいたり、木の上から落ちてきたヒヨドリの赤ちゃんをしばらく育てたり、30代後半から40代は、子どもたちの成長に動物たちも入り混じって、賑やかで華やかな一時代でした。

 

第7七年期~第8七年期  犬 猫 亀

ビンゴは8歳で亡くなり、取り残されたミミはとてもしょんぼりしていました。その頃、夫は入退院を繰り返し、私は付き添いで不在がち、末娘が一人で留守番をすることが増えました。一人では淋しいので、ミミは娘のナニー犬(?)としてめでたく室内犬に昇格。いざ間近で暮らしてみると、ミミの賢いことは驚くばかりでした。芸をするわけではないのですが、こちらの言うことがとてもよくわかるのです。興味深いのは、家族という群れの中で、ミミは下から2番目という位置取りでした。夫は入院中で不在、長女もイギリスにいて普段は家にいませんし、息子の関心はもっぱらゴジャラでしたから問題外、ミミにとって私はヘッド、末娘は面倒を見てやらねばならない存在、というわけで、私~ミミ~末娘という図式でした。

 

夫を見送り、実家の遠隔介護が始まると、いやがおうにも私は不在がちになりました。その頃には、ミミが大事にしていた(?)末娘もイギリスに行ってしまいましたし、息子も大学生になり、以前の私と同じ、自分のことで精いっぱいです。ゴジャラは相変わらず息子と寝ていましたけれど、ミミはどんどん老いていきました。母が逝く2か月前、ミミは末娘の帰国を待って、彼女の腕の中で息を引き取りました。

 

そしてそれから3年後、父が逝く5日前に、ゴジャラがこの世を去りました。私は伊勢におり、ゴジャラの最後の世話は息子がしました。不思議なほど、ペットと家族は強く結ばれていました。

 

疲れて帰宅すると、息をする動物がそばにいることの温かさは、何ものにも代えがたいものです。ですが、家族の不在は彼らにとっては甚だ辛いもののように思えて、それ以来、もう私のペットは終わり、と決めました。おわり

 

ロンドン便り HotTug

楽しい画像がロンドン、エンジェルに住む娘から届きました。

 

この日はイギリス中が、ロイヤルウェディングに沸いていましたが

エンジェルのカナルでは、王妃のものとされているらしい白鳥が

(記憶にある限り)過去最多の8羽のヒナたちとお目見え。

3羽しか生まれなかった年もあるのに、なんと豪勢な!!

幸運のおすそ分けとばかり、道行く人も足を止めます。

 

そこへやってきたのが、ホットタグと呼ばれる超人気のボート。

あったかいバスタブに浸かりながら、カナルをゆっくり流れていきます。

お揃いの帽子をかぶって、シャンパン飲んで、

この日は最高のボート日和。

さぞかし気持ちがいいことでしょう。

 

冬の間も結構、行き交ってたよ、と聞くと、ちょっと可笑しい。

日本なら、さしずめ真冬の露天風呂で雪見酒?

 

ちなみにホットタグはオランダ発祥、

そういえばオランダは水の国、運河の国ですものね。

ホットタブとタグボートをくっつけた絶妙ネーミング!

 

タグボートは大きな船を引っ張るパワフルなボートのことです。

 

でも、いくらタグボートだからと言って、これはいくらなんでも引っ張りすぎでしょ。

ゴムボート4つ。道行く人との温度差がまた笑える。

生まれたヒナが全員無事に巣立ちを迎えることはほとんどないようです。

一羽減り、二羽減り、という感じで、

たった一羽になってしまったヒナと親鳥が泳いでいる様子は

ちょっと淋しい。

 

でも今年は大家族、みんな揃って大きくなあれ。

これからの成長が楽しみです。


みたび蓼科


二度あることは三度ある。 ほんとう!?

 

恥ずかしいけど、またしても来てしまいました。

今度は娘と「茅野」駅で待ち合わせ。この駅に来たのはいつのことか。数十年前、当時は小さな駅だったのに、今では文化施設も併設されたすっきりした駅舎になっていて、時の経過を実感。驚いたのは風景が違ったこと。当たり前?ここから八ヶ岳が見えるってしらなかった! 

茅野駅から八ヶ岳が見える

くねくねとヴィーナスラインを昇りながら、あれこれ話していると、お互いの記憶の在処が全く違っているのが明らかになってきます。36歳違いの母娘。風景が同じに見えるわけはありません。子らの幼い日を懐かしむばかりの私に比べ、末子の娘はまだ赤ちゃん、写真を通しての記憶しかなく、逆に大人になってからの友人たちとの記憶の方が強烈らしい。母のノスタルジーはあえなく打ち砕かれることとなりました。前回は紅葉真っ盛りだった蓼科湖も初冬の黄昏はひっそりと。茂っていた時には気づかなかったヤドリギがぽつんと浮かんでいました。

桜の木にもヤドリギがつくって初めて知った

蓼科湖の畔、葉を落とした桜にヤドリギ


 

案内された部屋はひと月前より大きな部屋。(前回は一人でしたからね)部屋に続く廊下の壁には天皇陛下御一家をはじめ、皇族方ご滞在の写真が並んでいました。そうそう、この部屋です。友人と10年前に泊まったのは。出窓の下にベンチがついて、窓からはハイジの庭が見下ろせます。この風景、最高! 室内は木のぬくもり、大げさでない上品なしつらえが、とても居心地がいい。

ホテルハイジのスタンダードツインルーム

洗面所のシンクは二つもあるのに、この部屋のサイズにしてはベッドは小さめ。極め付きはチェストの中に収められて外から見えなくなっているTV。日本のホテルでは部屋のサイズに関係なく、大きなTVモニターが据えられていることがほとんどなのに、どおりですっきり。


 

何と、当夜の宿泊客は私たちだけだったのです。

 

これはまさしく貸し切り・・・いいの?

落葉に覆われた露天風呂への小道

冬木立に囲まれた露天風呂では

鳥の声、渓を流れる川音が響き渡っていました。

シェフお任せのフレンチディナーのオードヴル、自家製生ハムと大王イワナ、添えられた色とりどりのメレンゲが可愛い



10月の初めと終わり、そして11月の終わり、この秋、合計3度も訪ねることとなった御射鹿池。こんなきれいな青い空はないというほど美しく晴れた今日の朝、冬ざれていく風景には、きりりとした美しさと寂寥があり、水面に映る太陽の輝きになぜかしら胸が熱くなります。ひと月前とは打って変わってひっそりとして、訪れる人もまばら。

 

東山魁夷の絵「緑響く」のような深い緑と出会うには、これから半年ほど待たねばなりません。次にここに来るのはいつかしら。

山々よ、木々よ、さぁ、お眠りなさい。

 



ホテルハイジ 蓼科ふたたび

晩秋のホテルハイジ
広い庭の隅にある可愛いキャビン
ホテルハイジのディナー、オードブル

自家製スモークサーモンのムース、信濃雪鱒、大王イワナ、ウイキョウのババロア

不思議なことがあるものです。

 

秋のクロイツニュースに、奥蓼科の御射鹿池に行ったと書いたことから、古い友人夫妻からなかば強引に(笑)誘われ、それにまんまと乗っかって再び来てしまいました。しかも10年前、彼女と一緒に泊まったホテルハイジに。

 

10年ぶりの蓼科が、なぜ1か月に2回も!?

 

ホテルハイジは旧皇族、伯爵家の東伏見家の別荘を当主が1975年にホテルとして開放。当時日本はバブルがはじける前、一億総中流意識にみんなが浮かれてた?そう、夢を見ていた時代だったかもしれませんが、それでもホテルハイジの格調の高さは別格でした。皇族方をはじめとして、海外のVIPも宿泊されるようで…。小さい子たちを抱えた身では、ティータイムを楽しむのが関の山。庭に点在する可愛い小屋は子どもたちの格好の遊び場でした。今も変わらずきれいに手入れをされていました。懐かしい~

 

ハイジにはシングルはないので、一番小さなツインを選びましたが、その部屋はチロル家具で統一されている可愛い部屋です。10年前に泊った時は出窓の下にベンチのついた奥行きのある部屋でしたが、今回、一人で泊まるにはこじんまりとしてちょうどいい。木立に囲まれた露天風呂で一息ついてフレンチを堪能した後はおしゃべりに花が咲き、瞬く間に夜は更けていきました。


 

翌朝早く目が覚めたので、15分ほど下ったところにある蓼科湖まで朝の散歩に出かけました。雲海の向こうに南アルプスの峰々がのぞき、まばゆい日の光が木々の彩りをさらに鮮やかに照らします。気温は1度、吐く息も凍りそう。湖面には朝もやが立ち込めています。この幻想的な風景が見られたのも早朝だからこそでしょう。逆光の中に紅葉が浮かび上がります。


 

蓼科湖がこんなに美しいのだから、あの御射鹿池もさぞやと期待に胸は膨らみつつ、車を走らせます。(運転は私ではありませんが)

ところが、観光バスが何台もいて、人の多さにびっくり。肝心の池は先週末の台風のせいか、静謐さのかけらもありません。時を経ず2度来たからこそわかる、その違い。すべてに通じる「時」があるということを。


御射鹿池から、カラマツ林を抜けて横谷観音へ。10年前、友人とこの場所に来た時、大滝神社という古びた神社にお参りをしました。黒曜石の祠に続く急勾配の参道は階段もなく何度も滑りそうになりましたが、けれどその参道の両側に広がる林から、風が吹くたびにカラマツの葉が、サラサラと音をたてて、黄金の雨のように降り注ぐのです。友人と私はその音に聴き入りました。あの瞬間、あの世とこの世は一つになり、夢を見ているようでした。

 

ところが、ここでも期待は裏切られます。今ではすっかり整備され鳥居も立派になり、参道にはちゃんと階段もできています。随分、雰囲気変っちゃったね。

 

階段を数段上がってすぐに何やら異臭がすることに気付きました。これって何? どうやら枕木の防腐剤の臭いのようです。う~~たまらん、仕方がないとは言え、すごすごと階段を下りる私たちでした。

 

さぁて、「時」を学んだ私の蓼科行き

二度あることは三度ある? かも。


横谷観音の展望台から臨む風景


真夏のクロイツニュースから

あれよあれよという間に8月になりました。
はやくも立秋、暑中お見舞いから残暑お見舞いへ

先日、思いついて阿智村に行き
何となく夜のゴンドラに乗って、
標高1400メートルの星空を見てきました。
宿が貸してくれたマットの上に寝転がり、
ブランケットに包まってもまだ寒い。
夜風は冷たく、夜露がしっとりと降りてきます。
待つこと30分、一斉にあたりのライトが消されると
突然、浮かび上がる天の川、夏の大三角。
思わず知らず涙がこぼれます。
それにしても、折角の星の饗宴
ライトのみならず、マイクも消してほしかったなぁ

 


クロイツのおすすめ

「BIEPレベル1 名古屋2日間コース」
日程 2017/9/17-18日・月祝)10:00~17:30
会場 ウィルあいち
受講料 
38,000円(教材、消費税含)
バッチ国際教育プログラム(BIEP) は、バッチフラワーの創始者エドワード・バッチ博士から直接継承された教えを体系的に学ぶ世界共通のプログラムです。あなたも正規のコースで学んでみませんか?2日間でBIEPレベル1が取得できます。

名古屋レベル1*2日間コースへGO!



クロイツのカレンダーから
夏の名古屋オイリュトミー集中講座
名古屋オイリュトミーの会主催で、毎年夏と冬に開催しています。
初めての方もどうぞご参加ください。
日時:8/19-20(土日)10:00~12:00、13:30~15:30
会場:イーブル名古屋(地下鉄東別院徒歩2分)
講師:横山守文(オイリュトミスト)/ピアノ(鈴木里美)
参加費:1コマ3,000円、1日5,000円
持物:底の薄いシューズ、動きやすい服装(女性はフレヤースカート等)
お申込・お問合せ 090-1097-0230(鈴木)/kreuz706@gmail.com(中村)
.......★.......
BFRP東海
は、東海地方で活動する
バッチ財団登録プラクティショナーたちのネットワークです
詳細は BFRP東海のHPブログ等ご参照のうえ
問合せ・申込みは各企画の担当者名を書いて、
BFRP東海メール bach38tokai@yahoo.co.jp へお送りください


レメディ研究部(対象:BIEPレベル3以上)
日時 8/22(火)10:00~12:00
場所:日進市岩崎公民館 2F和室
参加費:300円
担当:田中美帆子(要予約)

バッチのおしゃべりランチ会
日時:9/4(月)12:30~14:00ごろまで
場所: 自然の薬箱 2階カフェ&キッチン
参加費:各自の飲食代のみ
担当:井神七子(要予約どなたでも参加できます

第85回 バッチの読書会
「なんじ自身を癒せ 第7章」
日時:9/15(金)10:00~12:00
会場:岩崎公民館2階 和室
参加費:500円 (当日集めます)
持物:バッチの遺産、マイドリンク、お弁当、お菓子など
担当:岩田千亜紀(要予約どなたでも参加できます

★読書会終了後、引き続き7月のバッチセンターツアーの
報告会があります。お楽しみに!
「バッチ三昧の旅」は ブログでぼちぼち更新中です。

アストロロジーライターのSayaさんによれば、占星術を意味するアストロロジーという言葉には「星の会話、星の言葉」という語源があるそうです。この夏、冒頭で書いた通り天上の星々に感激し、 前回のメールで取り上げた、タウマゼイン(存在驚愕)、存在することへの賛美、畏れを改めて実感した私は、以前から星読みに関心があり、いつか星の言葉が読めるようになりたいと思っています。最近では単なる星占い、またマニアックな西洋占星術の域を越えて、一億PVを誇る、大人気の星読みライター、石井ゆかりさんのような存在もあって、アストロロジーの世界もずいぶん裾野が広がりました。

 バイオグラフィーワークでは、人間に働きかける諸力として、惑星や12星座も学びに含まれますが、惑星に比べると12星座は~宇宙の真夜中~まだまだ未知の分野で、情報が決して多くありません。せめてオイリュトミーの、12星座は子音として動くことを足掛かりに探ってはみても、総合的に捉えるのは難しい。占星術は実際に宇宙を運行する星々、天文学がベースにあるわけですから、ここはひとつ占星術の基本を学ぼうと、ジュピター東海(バイオグラフィーワーカーの東海グループ)で話し合った結果、秋も深まる11月23日(木・祝)『12星座と人間』というテーマで、『星々と木々』『百合と薔薇』でおなじみの丹羽敏雄さんを招き、1日講座の計画を立てました。一人ひとり自分のホロスコープを手にしながら12星座に親しもうというわけです。
 星々を巡る旅をご一緒しませんか?ご案内は後日サイトにてお知らせします。

 今日は立秋、明日8日は水瓶座で満月が起こります。そしてお天気次第ですが、午前2時22分ごろから1時間ほど掛けて、月が欠ける部分月食が見られるそうです。また13日は、夏の夜空のハイライト、ペルセウス座流星群が見頃を迎えます。条件がよければ1時間に30個も!? 睡眠不足が続きそうです。とはいえ、今はその前に気になる台風5号、こうして書いている間も、時折、激しく雨が窓を叩きます。あちこちで雨風の被害が出ていますが、どうぞ大過なく通りすぎますように。

それでは皆様、名残の夏を健やかにお過ごしくださいませ。
* * *

最後まで読んでくださり有難うございました。愛と感謝をこめて。

 

このメールはクロイツにご縁のある方、BIEPを学ばれている方にお送りしています

 

配信不要、アドレス変更の場合はご遠慮なくご一報ください

 

 

クロイツ 中村かをる
* * *

 

愛知県日進市岩崎町石兼56-72

 

Tel/Fax:0561-72-9612  info@kreuz7.com

 

KREUZ+ https://kreuz7.com

 

梅雨のクロイツニュースから

6月も終わりに近づきました。
2017年が明けたのはついこの間だったような気がするのに、
時の流れの早いこと。
「時」の使い手になりたいと願いつつ、
すっかり使われているのが日常です。

甲斐信枝さんの『雑草のくらし』に描かれている
空き地のスケールには、はるか遠く及びませんが、
クロイツの庭はさしずめ雑草の王国、
6月に入る頃には草の勢いは日に日に増して
今やもうお手上げ、草抜きではなく草刈りが必要です。
それでも木漏れ日の中で、
胸元まで伸びたヒメジョンの白い花が
ゆらゆらと揺れている様は、えも言えず美しく、
まぁいいか、という気になっています。
窓辺の向こうはコナラの木、
雨間に鳥のさえずりが聞こえてきます。

あまりにも有名で、今更の感がなくもないのですが、
谷川俊太郎さんの処女詩集『二十億光年の孤独』の集英社文庫(2008)に
収められている「自伝風の断片」のなかに、
父親である谷川徹三(哲学者)の
「妙に記憶に残っていること(昭和34年)」という一文があります。

「…その時私は、そういう気質に俊太郎が生まれついたことを、
なかば嬉しく、なかば気がかりに思って、それを母親に話したものだった。…」 
当時5,6歳だった俊太郎さんが、庭で急にジダンダを踏んで泣きだしたので、
どうしたかと見たら、犬にちょっかいを出されたカマキリがかわいそうで、
何とかしてと訴えており、それで犬を追っ払ったらすぐに泣き止んだ。…
大人になったあとも、家の中に入ってきた蟻やハエ、クモさえも殺さず、
家の外にそっと出していた、と続きます。
 
このくだりを読んで、私はふと、まど・みちおさんを思い出しました。
そして二人の非凡なる詩人に共通していたのが
「いきているもの」に対する眼差し、
その根底にある「驚異(タウマゼイン)」だったことに、
激しく胸を打たれました。

タウマゼイン(驚異、驚愕)というギリシャ語は、ウィキペディアに出ている例を出すと
「 ふと空を見上げた時、そこに無数の星々を見る。何とはなしに、こんなことを考える。
「この星々はいったいどこから来たのか、この世界はどこまで広がっているんだろうか、
この広い宇宙の中で、なぜ私はここにいるのだろうか、そもそもなぜこういう世界があるのだろうか」
こうしたことを問うた時、そしてそこに自分の知的理解の及ばない問題があると気づいた時、
人はある種の「驚異」を覚える。こうした驚異のことを、哲学者たちはタウマゼインと呼んできた。

哲学も化学も文学も、すべて驚き「A」「ああ!?」から始まったのかも?

ここでいう驚きは、単に珍奇なこと、未知への好奇心や興味を指すのではありません。
もっと本質的で根源的な「存在することに対する驚き」です。
まど・みちおさんの詩には、その「存在驚愕」が、分かりやすい言葉で、たくさん出てきます。
かつて、朝日新聞の天声人語で取り上げられて一躍有名になった、
「ぼくが ここに」は、その代表かも知れませんが、
それ以外にも「カ」とか「木」とか、動物、植物を問わず、
それらの詩を貫いているのは、存在することへの畏敬の念です。

《りんごが ひとつ/ここに ある/ほかには/なんにも ない//
ああ ここで/あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ/》「りんご」

今、世界中で起きている天災、人災、争い、複雑に絡み合った問題や困難等々、
それらは見方を変えれば、多くの犠牲を払いつつも、
私たちを成長へと導くものかもしれません。
そしてそのほとんどは遠くの出来事であり、我が身に降りかからない限り、
真剣に向き合うことも少ないのです。
来週半ば、EU離脱、続発するテロ、火災等々、熱波に揺れるイギリスに出かけます。
日常のロンドンは下の画像に見られるように、6月には稀な暑さの中、
子どもたちがボートの練習に励む風景もありのどかですが、
当然周囲からは、大丈夫?という声がかかります。
けれどそこは恐怖や不安ではなく、
畏敬の念、タウマゼインという言葉を思い出しながら、
異国を旅してこようと思います。そのご報告はまたブログで。
皆さま、どうぞよい時をお過ごしください。
蟹座新月の日に

初夏のクロイツニュースから

5月、まばゆいばかりの新緑、木々の梢は、高みへと伸び、私たちの眼差しを空に誘います。普段、空を見上げることの少ない人も、この季節ばかりは、ついつい遠くを眺めてしまうのではないかしら。
 GWに娘たちがイギリスの自然遺産、ジュラシック・コーストを訪れたと、青い海の画像が届きました。冬並みの寒さと曇天が続いていたにも関わらず、奇跡的に晴れたのだそう。
こんな深い青を見ると、谷川俊太郎さんではないですが、あゝ、ふるさとは海のかなた、なんて言葉が浮かんできます。周辺ではアンモナイトの化石がいっぱい見つかるのだとか。三畳紀やジュラ紀に生きた首長竜や爬虫類を想像しつつ、春から夏へ、桜、藤、栃、栴檀(せんだん)など、梢を彩る花を透かして見る空に、「我がふるさとは空のかなた」などとつぶやいてみたりしています。

目が覚めた時、ふいに、言葉とかイメージが浮かんでくることってありませんか?

私は、毎日じゃないけれど、割とあります。
決して夢の続きなどではなく、突然、ふっと、です。
眠っている間に、見えない世界で、お叱りを受けたり、励まされたりしているのか、
コトンと何かが落ちてきたように答えが出たり、
思ってもみなかったアイディアが浮かんだり、覚悟が決まったりします。
日程を決めかねているような時に「月を使え~」なんて聞こえてくるわけです。
かなり、あやしい話しですけれど、これホントです。

それで、私の「今朝のお告げ」(笑) は、
なぜか「セントーリー」という植物の名前でした。
その言葉に目覚め、微睡みながら、
それは「余裕がある」ってことだ、とぼんやり考えました。

バッチフラワーで、セントーリーと言えば、
「親切で優しく他者に尽くす気持ちが強すぎて、
自分のニーズを無視しているうちに、人の言いなりになってしまう」
ネガティブな状態を指します。

私は横になったまま、朦朧とした頭で、
相手を優先させることは、自分は切羽詰まっていない、
いいよ、と受容できるのなら、それは余裕ってものだなあ、と
とりとめもなく、思いを巡らしていました。
だからといって、いつもというわけにはいかない。
常に他者を優先していたら、相手の成長の機会を奪うことになるし
なによりも、自分で自分を虐めていることになる。
そう、献身の気持ちは持ちつつ、適切な自己主張がポイント!

そこまで来たとき、急にハッと覚醒しました。
え!?なんで、セントーリーなの?と、自分に問いました。
はて、今の私って、何か、言いたいことが言えないでいたかしら?

さしあたって、思い当たることはありません。

でも、まだ形を取ってはいないけれど
私の無意識の海の中から浮かび上がる泡のように、
何かが声を上げようとしているのかもしれません。

誰にでもあることだと思うけれど
たとえば、先送りしていること、
たとえば、諦めていること、
たとえば、状況を見過ぎていること、
たとえば、本来の目的から外れている責任や義務など、

ゆっくりと考えてみなければなりません。
振り返り、自分への問いを立て、ゆっくりと考えてみましょう。

何せ、これはお告げなのですから ね。
それでは、また!

下の画像はセントーリー(Centaury)
リンドウ科 シマセンブリ属 和名ベニバナセンブリ

ブラームスはお好き?

私が初めてブラームスという名前を知ったのは、多分、母が歌う子守歌からだったと思う。当時にしては珍しく西洋音楽好きだった母は、毎夜、子守歌を歌ってくれたが、それが日本の子守歌ではなく、シューベルト、ブラームス、モーツァルトなどなどだった。私はモーツァルトの子守歌の、♪~月は窓から~銀のひかりを~そそぐこの夜~♪、というところが特に好きで、しつこくリクエストをしたものだ。

 

1954年、フランス実存主義の影響を色濃く持つフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」が、弱冠18歳の若さで世界的なベストセラーとなった。その5年後に書かれたのが、「ブラームスはお好き?」だった。中学生になっていた私は、なぜ、モーツァルトではなく、ブラームスなのだろう、と思いながら、むさぼるように読んだ。

 

それから何年経っただろう。1977年の春、サンフランシスコのオペラハウスで、アシュケナージ指揮のブラームスを聴く機会があった。ワクワクしていたのも束の間、演奏が始まると間もなく気分が悪くなり、もう聴くどころではなかった。ブラームスを聴く時は事前の食事をしてはいけない。気をつけようと思った。それにしても、もったいないことをしたものだ。

 

木曜日、豊田あげつまクリニックのホール、ノバリウムで、県芸の教授陣による「ブラームス室内楽の夕べ」のコンサートがあった。デュメイのCDを聴いて好きになった、ヴァイオリンソナタ第1番と、あまり知らないピアノ四重奏曲第2番だ。渋い...なんてカッコいいプログラムだろう。そうそうたる演奏者たちの奏でる響き、円熟、重厚、軽妙洒脱~教授、准教授ともなれば、後進の指導が大きな仕事であろう彼らが、表現者だけで生きていただろう若かった頃とは、おそらく違う世界を見せてくれている、なんて贅沢な至福の時間だろう。。。

参りました。

 

ブラームスはお好き?

もし、特別にお好きじゃなくても、

ぜひどうぞ。

 

ブラームス室内楽全曲演奏プロジェクト

2017/5/23(火)18:45

ザ・コンサートホール 名古屋伏見

フランソワーズ・サガン(1935-2004)

富裕な家庭の第3子(末子)としてフランスに生まれる。18歳のデビュー作で世界的名声とともに巨額の富を得る。莫大な収入を得たものの浪費も激しく、 酒、たばこの他、自動車事故で重症を負った時の痛み止めのモルヒネから麻薬中毒となり逮捕されたこともある。

 

ユーミンの「セシルの休日」に出てくるセシルは、サガンの「悲しみよこんにちは」に出てくる主人公の女の子、ということを知ったのは、ずいぶん後の話しです。


4月のクロイツニュースから

4月、いつものメール配信からメルマガへの切り替え作業が手間取り、クロイツニュースのお届けが遅くなりました。皆さま、ごきげんいかがでいらっしゃいますか? この辺りでは桜も咲き終わり、芽吹きの季節となりました。痛々しいほどの新芽が、日に日に普通の若葉になっていくのを見ると、その鮮度を留められないことに、なんだか切ない思いがしてなりません。生きているものは、みな移ろっていくのは当たり前のことですが、生命が溢れる春ほど、それを感じさせられるときはないのかもしれません。ホリーの花に蜂が集まり、スターオブベツレヘムの花も開き始めました。植物たちとともに、春をしばらくとどめ、楽しみたいものです。 

4月、新生活が始まった方も多いことでしょう。引っ越しを重ねていると、自然に身の回りの取捨選択がされていきますが、私のように同じ場所に30年以上も住んでいると、いつしかどっさり、暮らしの澱のようなものが溜まっていきます。家族が増えては、またやがて減っていくプロセスで、その都度、整理整頓をしていかねば、決して片付かないわけです。とはいえ、独立していった子どもたちの、物置部屋みたいなところもあって、一家を抱合している実家のような存在は、私個人だけでは決めきれないものも多く、なかなかすっきりとはいきません。

私自身、整理が嫌いなわけじゃないですが、正直に言うと、断捨離を掲げることにはちょっと抵抗があります。無駄も捨てがたい。無駄があってこそ、味があろうというもの。箪笥の肥しには安心感があるし、捨てられないメモ書きも、時には重要な意味があるかもしれない。働かないアリ理論なんてものもあるじゃないですか、というようなことを考えていたある日、ここ何年か、折にふれ、思い出そうとして出てこない言葉がありました。それは「回心」、確かメタなんとかって言うんだったよなあ、とおぼろげな記憶を辿っても、どうしても出てこなかったものが、ふと会話の中に入ってきて、それが糸口になってググってみたところ、「メタノイア」という言葉だと分かりました。ああ、すっきり。

その翌日のことです。毎日使っているファイルの引出しに、古い手帳が入っているのに気づき、何気なくしおり紐の挟んであるところを開けてみたら、な、な、なんということでしょう。そこには 私の字で、「メタノイア 回心 ギリシャ語」と書いてあるではありませんか!

それは2000年の手帳でした。私ったら、17年前の手帳をいつも使うところに入れていた、かつ、しつこく思いだそうとしていたことになります。今でこそすぐに答えは得られそうですが、17年前のことですから、その過程ではググるという言葉も発想もなかったのです。それにしても興味深いのは、答えが分かった途端に、それまで隠してあった答案用紙が、ひらりと出てきたみたいな感じです。いったい誰が隠して、誰が出したの?と思わず聞きたくなります。もちろん、この手帳を処分していたら、この面白さは味わえませんでしたけれど。

4月、何か新しいことを始めたくなる季節でもあります。自分の身辺を見回して、捨てるもよし、まだまだとそばに置いておくのもよし、すべてそれらにはベストなタイミングがあって、その「時」を捉えることの方が重要な気がします。

年の初めに思うこと

 

2017年は酉年

あちこちに「飛翔」、「羽ばたく」などという

鳥にまつわる言葉が書かれている。

 

BFRP東海御用達、名古屋市東山植物園の

動物園エリアが鳥インフルによって

12月から閉鎖になってしまった。

動物たちにとっては、

きっと静かなお正月に違いない。

 

思えば私は鳥が大好きだ。

外国航路に乗っていた叔父からお土産に

体長30センチ位のキボウシインコをもらい

「ワイワイ」と名付けて、肩に乗せたり話をしたり、

よく遊んでもらった!?

(物まねがとても上手で、私の名前はもちろんのこと、母そっくりの声音で、電話の応対などお手のもの)

今ではワシントン条約で規制されているので

あの頃のように簡単に手に入らないかもしれない。

 

私のワイワイは風切り羽を切られていて

室内程度しか飛べなかったけど、

翼を広げて飛翔する姿に、

強烈な憧れを持ってしまうのは

いったい、どこから来るのだろう。

 

フィギュアスケートのジャンプ、

バレエや、パラグライダー然り、

トンボや蝶々などなど、

私たちは重力を克服することに

とてつもなく魅力を感じているらしい。

 

それは、人間の身体を超える、ってことだから?

 

いつか、どこかで

飛んでいた、いや、浮遊していた

意識の名残か...

 

身体を持った人間の私たちは

しっかりと蹴ることのできる大地があってこそ

飛ぶことが可能になる。

 

さあ、私よ、しっかりと大地を蹴って歩こう。

今、在ることを味わいながら。

 

 

クロイツでのバッチ国際教育プログラム

水星のマーキュリーは翼の生えたブーツと帽子が目印

 


移行の季節

秋の植物観察会2016~東山植物園で

 来る日も来る日も雨か曇り空~これではイギリス人じゃなくても、お天気でゴース(希望を失くした時に使うバッチのレメディ)になっちゃう、と笑い話ではなく本気で思うほどでしたが、ピンポイントで雨が上がったのはスゴイ!

 今日で9月も終わり、夏でもなく、秋でもない。そんな移行の季節の植物たちはどんな表情をしているのでしょうか?

 新旧取り混ぜて集まった10人で、いつものコースを植物に挨拶しながら回ります。先発隊のチェックの通り、春までは、雑草扱いだったクレマチスが、観察者(私たちのこと)が押し寄せたからか、「センニンソウ」と小さな白い名札をつけてもらっていました。よかったね、エッヘン!名前が付くとちょっと格上げした感じです。オークはドングリをいくつかつけていますが、剪定のきつかったハニーサックルはちょっと淋しい。

それにしても、なんだかさえないのはお天気のせい?

いまいちジミ~な雰囲気が植物園内に漂っています。これって移行期だから?

 

季節ごと、当たり前のように姿を変える植物。花から種に、種から花にメタモルフォーゼ!(すべてクレマチス)

子どもでも、乳歯と永久歯とが生え変わる頃とか、ツクツク背が伸びていくときとか、縦横のからだのバランスがちょっと変に整わない時期、可愛いんだけど、妙に不細工になったりします。私たち現代人は、できるだけピーク(若さ)の丘を長続きさせたい、って思っていますが、それってホントにいいのかな、と時々自問自答します。特に植物の変化を見ていると、人間だけが同じところに止まっていられるわけがない、と思うわけです。つまり宇宙と呼応するように、植物は季節のめぐりを知っていて、ちゃんと次の段階に移行していくけれど、人間は特別で、外見は若さを保ったまま、内的に成熟できる? のかな。いやあ、そうじゃないでしょ。内的にも成熟したくない人もいるかもしれないけれど、昨日より今日がよくなろうとするのが自然の摂理。そのために次の扉を開けるには、何かを手ばなすというのは、浦島太郎に限らず昔からのお約束。


 

 一番きれいな時っていつなんだろう。花が咲くころ?

そう、花が咲くとみんな目が惹かれる。きれいな色がパッと辺りを染めて、香りもして、虫を呼び寄せる。植物は様々な方法で次の世代につながっていくけれど、受粉した途端に、色も香りも目的を果たしたかのように収縮へ向かう。

 誰もが知っている、花の美しさは永遠じゃない。

 永遠じゃないからこそ、美しい。

 それも誰もが気づいていること。

 

 

 

 じゃあ、移行期って本当にさえないのかな。ただ、見る目がないってことなんじゃないかな。私の中にある、きれいの基準が、花とか若さとか可愛さとか、スマートさとか、そういったものしか認めていなかったら、当然見落としている「美」があるってことだもの。

 そう思っていたら、今回、素敵な発見が、スィートチェストナット(栗)をスケッチしていた仲間から、もたらされました。ほら、栗のイガの頭のところ、雌花の名残が見えるでしょ。雌花の下が栗の実!!そしてイガイガの形の美しいこと。まるで1本1本が木のようで、みんな、目をキラキラさせて見入りました。見る目があれば、世界はどんどん美しくなるのかも。

 

BFRP東海のブログで、植物観察の詳細をご報告しています


予期せぬ出来事

子育てフェスタが終わって一段落

次に控えていることを考えていたからか、

昨夜からとてもハイパーになってしまった私、

睡眠時間が一気に減ります。

朝からテンションが上がり、仕事がはかどる!はかどる!

 

窓を開けることも、何か食べることも忘れて

夢中でPCに向かっていましたが

Hさんが出かけることもあって、作業を中止、

朝食をつくりはじめました。

 

朝のお決まりメニューは

まずはケールと林檎とバナナのスムージー、

キッチンの扉裏にある包丁入れから

ぺティナイフを取り出すと

パン切ナイフがひっかかって

アッと言う間もなく、垂直に私の足の上に!

 

イテテ・・・落ちたところが切れて出血・・・

あゝ、パン切ナイフで助かった!

大したことはありません。

まずはレスキューレメディを飲み、きれいにふき取った後

周辺にレスキュークリームを塗って絆創膏を貼ったら、

それでおしまい。一件落着となりました。

が、

もし逆だったら、と思うとぞっとします。

ぺティナイフの先端は鋭利です。

あの角度で落ちたのなら、きっと刺さりました。

好事魔多し。調子に乗ってるとき

案外、事故が起こりやすいものです。

 

そうそう、天使が私を蹴飛ばして足をすくったかも。

こんな時は無理は厳禁。

今朝は久しぶりに雨が降っています。

少し落ち着いて歩調を緩めましょう。

ほんと、ほんと、ありがとう。 


帰りました!

揺れるイギリスを映すかのように

いつも以上に不安定で。ころころ変わるお天気、

EU残留か離脱を問う国民投票では

スコットランドの時のように

結局は「残留」だったね、のはずが、

期待は裏切られ、どよめくロンドン、

やり場のない気持ちも晴れると

楽しみにしていたユーロカップでは

まさかのアイスランドに敗退。

 

世界で最もお金持ちといわれるイングランドチームが

パートタイマー選手さえいる

アイスランドチームに負けたとあっては

ますますがっくり。

窓に貼られたREMAINの文字もイングランドの国旗も

ひっそり姿を消しました。

 

そんな歴史的瞬間も、今のところは対岸の火事で

今回はウェールズへ

そして前回行けなかったキューガーデンへ。

毎度のことながらの歩いて歩いての植物三昧の旅。

で、あっという間に帰国となりました。

帰国便はフランクフルト乗継ぎで、初のロンドンシティ空港から。

コンパクトでビジネス仕様。まだ工事中のところもありましたが

市内からも近く便利な空港です。

初めてって、ちょっとドキドキしますね。 


行ってきます!

 

EU離脱か残留かで、揺れるイギリスに、

ドンピシャ国民投票めがけて、行ってきます。

といっても、決して

狙ったわけではありませんが。

 

おりしも6月のバイオグラフィーワークでは

鉄の女、マーガレット・サッチャーの

人生を取り上げたばかり。

彼女が、欧州寄りではではなかったのはなぜ?

案外イギリス人にとっては、普通のことなのかもしれません。

東洋人には、理解不能なところがありますが。

歴史的瞬間に立ち会うか?

 

ともあれ、今年の旅の目玉はウェールズ

バッチ博士が初めてレメディに相応する植物を

見つけたアスク川流域を訪ねます。

 

またぼちぼちと、旅のご報告をいたします。

 


やさしい子らよ

やさしいちちと

やさしいははとのあいだにうまれた

おまえたちは

やさしい子だから

おまえたちは

不幸な生をあゆむのだろう

   池井昌樹 絵本『手から、手へ』より抜粋

 

3月末、ブログに「人生にYES!」を書きながら

なんとなくすっきりしない私に

1冊の本が届きました。

 

昭和の家族写真のようでいて

どこか、「あの世」的な「永遠」を思わせる

植田正治さんの写真とともに構成された

『手から、手へ』池井昌樹さんの詩集です。

 

どんなにやさしいちちははも

おまえたちとは一緒に行けない

どこかへ

やがてはかえるのだから

 

人によっては、やさしさだけではなく

むしろ、物心つかないうちから、

たとえ、それが愛にくるまれていたとしても

「NO」ばかり、言われて育つこともあります。

そういう場合、私たちは、

自分が傷つかないよう、無意識に

見かけ上の「YES」を言って、

辻褄を合わせたりもするのです。

 

おとなになっても、

外側からの「YES」が、ほしくてたまらない。

人の顔色が気になる。

人から評価されたい。

 

でも本当に必要なのは

内側から満ちてくる「YES」なのでしょう。

 

汲めども尽きぬ泉のように

たとえ、やさしさだけを手渡されたとしても

内なるYESをつぶやくことは

まことにむずかしい。

 

でも、この詩が語る言葉のように

 

怯んではならぬ

憎んではならぬ 

悔いてはならぬ 

 

やさしさは「ちまみれのばとん

 

どんな苛酷と思える人生にも

「YES」が言える。

それを支える一筋の光

それを人は私の中の「わたし」というのではないかしら。

 

ベルト・モリゾ「ゆりかご」1874
ベルト・モリゾ「ゆりかご」1874

準備ができた?

この家に住みはじめてはや33年

庭の真ん中にある欅は2階の屋根をとっくに越えた。

見上げても届かない空の上で、今、芽吹きが始まっている。

毎日、毎日、

来る日も来る日も、私はその木を見てきたけれど、

その木も、ずっとそこに居て、

私を、家を、私の家族を見ていたのだ。

家族は、その木が大好きで

晴れた日にはその下で食事をし、子どもたちは遊んだ。

その周りで歌い、走り、落葉をかき集めて焚火もした。

 

欅は何を思っているのだろう。

 

今、ツリープロジェクトでその欅を観察している。

観察し、スケッチを重ねていると

見てきたつもりで、全然見ていなかったことに気づく。

そう、こんな風に観てはこなかったのだ。

 

スケッチブックの真っ白な一ページに

柔らかい黒鉛筆で、ていねいに欅の冬芽を描く。

どの冬芽の下にも必ず葉痕(葉の落ちた痕)がある。

つまり新しい芽は前年の葉の付け根(葉腋)に出来る。

 

スィートチェストナットやオークのように

冬芽が出てきても、なかなか葉が落ちない木もあるけど

普通、広葉樹は、

冬芽ができると安心したかのように葉が落ちる。

「準備ができたね、それでは行くよ」というように。

 

ふと思う。私達にも同じことが言えるのかも。

それに気が付いていないだけで。 

立派なハルニレの木(札幌で)
立派なハルニレの木(札幌で)

人生にYES!

先日、久しぶりに会った少女が、

とても美しくなっていて、びっくりしました。

聞けば、希望の高校に合格したとのこと。

おめでとう! 身体中から自信があふれています。

 

あぁ、そうか。

人生がわたしに、「YES」を言ってくれた時

こんなふうに輝いたものだった。

  

  少女よ、

  今のあなたには、届かないだろうけど

  人生はいつも、あなたに「YES」と

  言ってくれるとは限らない。

 

どんなことがあっても、どんなに傷ついても、

何もかも失ったとしても、無数の涙のあとで、

それでも、人生に「YES」と言える自分になる。

 

痛みや悲しみの向こうにしかない

自分だけの「YES」を

あなたが人生に対して言う

その変容の瞬間を経て

人生は真に輝き出すのだから。

 

 

Knaus 野原の少女
Knaus 野原の少女

霧の中で思うこと

今朝、目が覚めると、外は真っ白だった。

雪ではなく霧......

何も見えません。こんな霧は久しぶり。

  

  いつも見えるものが見えない

  って、ちょっとこわい。

  境界がわからない。

  って、こんなに不安になることだったのか。

  

すごく前だけど

季節は今頃

鳥羽のパールロードを走っている時

深い霧にあってしまった。

あの道は、海にせり出すようにカーブが続く。

いつ海に落ちてもおかしくない、と

冷や汗をかきながら、

必死でハンドルにしがみつく。

 

なんとか抜け出た時はヘロヘロでした。

脱力・・・

 

道路を踏み外すことは、とても怖いのに

見えない世界の境界を越えることに

わたしたちは、無頓着。

 

自分の分をわきまえなかったり、

人の領域に勝手に踏み込んだり、

自分の感情のありかを見失うことも日常茶飯事。

 

見える世界から学ぶ事は、

なんてたくさんあるのでしょうか。

 


お正月

あけましておめでとうございます。

新しい年を迎えました。

昨日と今日の間には、何の変りもないはずなのに

ダイニングの窓辺に差し込む光までも、

なにかしら

あらたまってみえるから不思議です。

 

私は年末からの風邪が年が明けても治らず

おかげでぐうたらしたお正月になりました。

睡眠を十分にとり、ゆっくりのんびり。

窓からはおひさま燦々。ゴキゲンなお正月です。


親子の対話

上の画像はすべて

東山植物園のハニーサックル

蕾から開花、結実、そして・・・

先日、娘とスカイプで長話をしたやり取りを

友人たちに話したところ、一瞬、沈黙。

「親子じゃないみたい」と言われて、

びっくりしてしまいました。

「え~どこが?」という私に

「だって、親子なら、もっと、モロな感情が出るもんでしょ。」とのこと。

なるほど! そういえば、見かけによらずクールだよね、とも言われる。

 

で、つらつら考えてみると、

これは、やはり子育ての途中から遠距離になったせいかも。

 

第1子の長女がイギリスに行ったのは1993年の秋、

13歳になったばかりのことでした。

思春期前期、不安定さの真っただ中。

今のようにラインもスカイプもなく、それどころか、

まだ携帯もインターネットもありません。

国際電話のコレクトコールにヒヤヒヤしながら、

ちょっとした愚痴や苛立ちに、じっと耳を傾ける。

口を出したくなる時もあるけれど、

ガマンガマン、ただ寄り添うだけ。

母親の不用意な言葉は、他人以上に傷つけることもあります。

近くにいれば、修正可能かもしれない。

でも、離れているから、自然に、

迂闊な言葉が出なくなりました。

 

不安から、怒りから、親は子どもに、本当の気持ちではなく

感情的な言葉を投げつけてしまうこともありますが

それが本来の家族らしい会話だとしたら、私たち親子は?


どの家族にも対話には特有のスタイルがあります。

好き勝手に思ったことを言い放てる親子、

ある意味、その正直さ、無遠慮さが、ちょっと羨ましい。


距離と時間がつくった親子の対話のかたち。

とにかく、私の「聴く力」は子どもたちによって

育てられた、ってことらしい。



美術館を梯子する

10月、11月と、ちょっと頑張った自分へのご褒美に、

今回は、春頃から固く心に決めていた

没後20年―調和の器‣永久の憧れ

「ルーシー・リー展」に、姫路市立美術館まで行ってきました。

 

そればかりか、ここまで来たなら、スルーは無理でしょ、と

兵庫県立美術館の「パウル・クレー だれにもないしょ」まで

一日で回る計画。 ちょっとやりすぎ。

 

初姫路です。雨に煙る白鷺城をめざして、11時過ぎには美術館到着。

赤レンガの落ち着いた美術館、中は強靭な糸をピーンと張ったような静謐な空間、

初期の1921年~の作品から1990年88歳までの作品 200点が展示されています。

宇宙を閉じ込めたような青いボールがまっさきに目に飛び込んできました。

ひとつ、ひとつ、対話するように見ていくと

あっという間に3時間が経っていました。なにも食べていないのに、お腹がいっぱい。

食事をする間もなく姫路を後に、大急ぎで神戸三ノ宮へ向かいます。

すでに3時を回っています。がらりと雰囲気が変わって、現代的な兵庫県立美術館。

ここは、4月にホドラー展を観にやってきたところ。

そういえば、あの時もチューリッヒ展と、美術展の梯子をしましたっけ。


こちらもまた、とても力ある美術展でした。

 謎かけ、謎解きをしているような作品群。

強いまなざしのクレーも印象的でした。

異なる世界の間を行き来するパウル・クレー

この世で僕を捉まえることはできない/僕は死者たちのもとに/

そして未だ生まれていない者たちのもとに住んでいるのだから/

クレーの絵を観ていると、もう絵画の世界には、

新しいものは生まれないんじゃないか、と思わずにおれません。


それにしても、少々くたびれました。

子育ての行方

2015/9/29 ミカエル祭の満月
2015/9/29 ミカエル祭の満月

9月、末娘の誕生日が来て、

私の3人の子ども達全員、30代になりました。

もうみんな、すっかり大人です。

 

18年前、金木犀の香る美しい秋の日に

夫は、私と3人の子どもを遺して

旅立っていきました。

振返れば、大変な時もありましたが、

それぞれみんなよく頑張りました。

子どもたちは、まだ幼かったのに、

誰一人、それについて、

文句を言わなかったのは、えらい。

 

何があっても、それはそれとして、自分の人生を引き受けること。


子どもたちは、見える父親は失ったけど

見えない父親が、とてもいい教育をしてくれました。

 

死者と生者の協力で、この世は成り立っている、と思えば

自力だけで、ことが成されるわけでないのは当たり前。

 

なにもかも、すべてのことに、ありがとう

 

この澄んだ秋の空気の中で、冴え冴えとする心を抱いて

私を追い越していった子どもたちの後ろ姿を

楽しく思う此の頃です。


勢いに負ける

ただいま格闘中、なんとって?


樟の古葉、葉苞、花粉の掃除に始まり

コナラやヤマモモの雄花、欅の花粉

木の花は、目立たないけれど、大量です。


花が咲き始めたころのコナラは

繊細なレースが揺れているように綺麗だけれど

あっという間にこんなふうに、屋根も樋も通路も埋まります。

屋根の上に積もった花殻を掃きよせていたら

生まれたて?細い白い蛇までも一緒に落ちてきました。

向こうも驚いただろうけど、こっちもびっくり。

ヤモリもトカゲも驚かないけど

さすがに突然落ちてこられるとギョッとします。

 

少し庭に出ているだけで、蚊は寄ってくるし

いろいろな種類の蜂がぶんぶん羽音をたてています。

この間までは、ほとんど草も生えていなかったのに

もう足の踏み場もありません。


今年こそ、頑張る!!

早春の決心は、もろくも崩れ去ろうとしています。

あゝ、今年も、この植物たちの勢いに負けてしまうのか。。。


庭をきれいにできる人って、心から尊敬します。

 

ひとやすみ

世の中はゴールデンウィークです。

どこを見てもまばゆいばかりの新緑!

不安定だったお天気もこのところすっかり落ち着いて

気持ちのいい、洗濯日和が続いています。

 

4月から始まった毎週のPTTコースも

前半の3回を終えて、連休明けまでひとやすみ。

とはいえ、5月に入るとバイオグラフィーワークが待ったなし。

今のうちに、準備のための本を数冊読んでおきたい。

チャート作りに観察ノートのまとめ。

考え始めると、うかうかしていられません。

 

こんな素敵な季節に、PCにかじりついてるなんてと、

思いつつ、家の中でじっとしてるのも、案外好きなんだなあ。 


さあさ、ひとやすみ、ひとやすみ。

 

忘れな草も咲きました。

 

わすれなぐさ

絵からリズムが

忙中閑あり!(ホントかな)


神戸までホドラー展に行ってきました。


東京ではタイミングを逃し、この忙しさではもう無理と

ほとんど諦めかけていたところ

長距離バスで行こうよ、私も、もう1回行ってもいいよ、と

東京ですでに鑑賞済みのHirokoさんの言葉に誘われ、

ひょこっと空いた一日、バスで行ってきました。


あゝ 行けてよかった!!

ありがとう~


ドクン、ドクン、ドクン

絵の前に立っていると、空間が波打つように、

こっちまで共振し始めます。


な、なんなんだ。この感覚は。

「感情Ⅲ」1905 ベルン州美術コレクション

このタイトル、意味が分からない。

ホドラーによれば「どんな感情も身振りを持つ」とのことですが


「オイリュトミー」 1895 油彩カンヴァス ベルン美術館

 

これをオイリュトミーというの?

オイリュトミーとは、ギリシャ語で美しいリズム、調和あるリズムという意味。


シュタイナーの運動表現芸術誕生以前に

ホドラーは何をもってオイリュトミーと呼んだでしょう。

 

「自然の形態リズムが感情のリズムと協同すること、交響すること

わたしはそれをオイリュトミーと呼ぶのだ」ホドラー

 

「悦ばしき女」 1910年頃 ベルン美術館


これはまさしくオイリュトミーのイメージそのもの

 

「感情」によって動かされる「身体」、

あるいは「身体」によって動かされる「感情」にかたちを与え

そこに生起するリズムを描き出す。

「木を伐る人」 1910年 ベルン、モビリアール美術館

1911-1958流通 50スイスフラン紙幣の原画

びゅ~んと、すごい力で、身体ごとうねりを挙げていそうです。

兵庫県立美術館の水辺に面したカフェで、

たった今見終わったばかりのホドラーを語り合う。


生きているもの、死んでいるもの

リズムによって吹き込まれるいのち


ホドラー 1853-1918

シュタイナー 1861-1925

バッチ 1886-1936

他にも、多分いっぱい。

19世紀末から20世紀初頭、この時代に

大きな精神性のムーブメントがあったことを、

今更ながら思います。



八ケ岳へ一人移住(3)

  移住を実現化するため、次に取り掛かったのは、八ケ岳周辺の諏訪圏域から北杜市小淵沢辺りまでの、定住可能なリゾートマンション、〇〇リゾート、〇〇の森、〇〇ビレッジ等々、管理別荘地の中古別荘、地元の不動産業者が扱っている中古住宅、古民家まで、検索に引っかかってくるサイトを手あたり次第、片っ端から見ていった。

 

ところがなかなかイメージがつかめない。

画面上の物件に、自分が住む絵が描けない。

 

 本来なら予算、物件の広さ、築年数、管理費用等々、条件に合致する物件をリストアップするべきなのだろうけど、初心者ゆえよくわからない。いろいろ見たり聞いたり、情報を集めていくうちに、わかってくるだろうと、とにかく運命の終の棲家を見つけるべく、内覧の申し込みをし、案内してもらい、自分のイメージが固まっていくはずだったのだけれど、見れば見るほど、徐々に自分がどんな家を探しているのか、分からなくなってしまう。目の前に現れる家は千差万別。とても綺麗でかっこよくて築浅だけれど、舗装道路から外れて坂道を延々と上ったところにあるログハウス、湖が近くて眺めもいい。でもなんだか暗い家、キッチンになぜか提灯がいっぱい並んでいて、お店?みたいな家、間取りが定住向けではない家、手入れの行き届いている家から、お皿が洗い桶に入ったまんまの家まで、それはもう混乱の極み。何回目かの内覧後、徒労感に落ち込んでいる私を見て、娘が言った。

ママにとって、何がいいかは分からないけれど、何が嫌なのかが分かったよ。

中古物件だもの、気に入らないところはどんな家にもあるのは当たり前でしょ。そろそろ、ここだけは譲れないという最低条件をリストアップして、あとは自分にとって重要かどうかを見極めるようにしたらいいんじゃない。

 

その頃にはすでに20件ほどの物件を見ており、目も慣れて、世間の相場とか、押さえどころとか、地域や築年数での金額設定など、そこそこ把握できるようになっていた。だからこそ、なかなかしっくりくる家に出会えないことに苛立ちもしていたのだけれど。なんと言っても70歳を越えた私が一人で住むには、若夫婦が移住するのとは違う最低条件があるのだ。まさしくその通りだと、ちょっと頭をがんとやられた気分で、リストを整理をしてみた。

 

*地域は山梨か、長野か=やっぱり馴染みがある長野県。

*価格と築年数は相関関係にあるから、予算の上限を明確にする。

*標高は1200m以上が望ましい…1000mくらいだと夏は空気が重い。寒いより暑いのが辛い。

*となると、別荘地。かつ年齢や男手のないことを考えると管理別荘地。

*後々を考えると、土地は借地権ではなく所有権。

*雪かきを考えると幹線道路からあまり奥まっていないほうがいい。 

*家の広さは30坪程度はほしい。

*土地はそこまで広くなくてもよい

*道路から敷地に入るのに段差がない

*車が複数台停められる

*JR中央線の特急停車駅からタクシーで来られる

*高速道路のインターが近い

*暖炉(薪ストーブ)があればうれしい

*近くに温泉があればなおいい。

 

 整理したとたんに、新着物件としてサイトに上がってきたのがこの家だった。

こんなことってある?

あったのです。

私がリストアップした条件をすべてクリア!!!

 

めでたく、私は、私の家と出会えたのです。

 

八ケ岳へ一人移住(2)

  

 いずれ忘れてしまうだろうから、今のうちに書いておこう。

 移住への思いを決意する半年前の秋、かつて家族で毎夏を過ごした山荘の近くに、東山魁夷の絵のモチーフになった御射鹿池があることに気づき、急にこみあげてきた懐かしさに誘われるように蓼科に向かった。10年ぶりのことだった。そしてその短い秋の間に、なんと私は3回も蓼科に行った。家族で過ごした蓼科、八ケ岳、この時の風景や印象は、やがて移住先を決める際の苗床になったと思う。ブログ「みたび蓼科

 それでも、物事は一直線には進まない。日々の生活はあるし仕事もある。差し迫って引越しをしなければならない理由はないのだから、優先順位を高く保つのはなかなか難しい。ほとんど「引越するする詐欺」になりかけていたとき、1年ぶりに訪れた八ヶ岳の麓、原村の小さなカフェで、移住してきた人たちとの語らいの中、ふとシェアハウスの案内に目が止まり心が動いた。

 

 シェアハウスか...お試しにどうだろう。行くなら一年で最も寒い時だよね。その季節を好きになれたら、山暮らしは可能だろうし。ところでカレンダーを見ると、せいぜい4日くらいしか、家を空けられない。思えば結構、仕事が詰まってたんだ、と思う。そんなので移住なんてできる?いやいや、でもずるずるしてると、実現から遠ざかる。

 

 年が改まり、2019年2月節分、雪に埋もれた原村へいざ!!

 

 結果は見事惨敗。

 まずシェアハウスは無理と分かる。若い時ならいざ知らず、もう心も体も思いっきり我儘になっているし、快適さの幅がめちゃくちゃ狭くなってしまっていることに改めて愕然とする。人と歩調を合わせるのは辛い。狭いのも辛い。元々人に気を遣う方だから、人といると疲れる。なんせおひとり様生活のプロだもの。

 それにしても案外平気だったのが寒さだった。寒さなんて吹っ飛んでしまうくらい世界が美しい。

 こうなったら、リゾートマンション、中古別荘で探してみよう。暖かくなったら活動開始。 

八ケ岳へ一人で移住(1)

  

 70代、一人暮らし、知らない土地、厳しい寒さ、交通不便、という、高齢者がしてはいけない転居禁止事項をすべて無視した私の移住は、周りから驚きと批判をもって見られたり、逆に喝采を受けたりもしたけれど、今のところ、この移住は大成功。今のところ、悪いことは一つもない。振り返ると家族から転居を勧める話が出たのは3.11の後、それは古い家に一人暮らしをしている私の身を心配してのことだったのだけれど。さらにいえば、夫を亡くしたころ、山ふところに住みたいという衝動が起こり(明らかに逃避だったけれど)、そのときは子どもたちもまだ幼く、両親も健在で、住まいは家族のホームとして機能していることが必要だったから、その場所を動くことは現実的ではなかった。

 

 息子夫婦が名古屋市内の、便利でなおかつ自然に恵まれたところにあるマンションに住み始めたとき、かなり刺激を受けて、同様の条件を持つマンションをいくつも見たけれど、結局、具体的に動き始めてみると、いろいろと思うところもあり、そうこうしているうちに気持ちも萎え、面倒くさくなってしまったのだった。

 

 ブログ「人生の転換点」にも書いたけれど、2018年の初夏、バイオグラフィーワーカー養成コースで人生の鏡映関係がテーマで、21歳を基点とした自分のチャートを何気なく眺めていると、突然、雷に打たれたような衝撃が走った。15歳、27歳、48歳と、私自身の人生の大きな変化の時が直線上に美しく並んでいて、その延長線上に「現在」があったからだ。今まで、私は何を見ていたのだろう。人生の晩年に向けて、もうぼやぼやしていられないと、気持ちが定まった瞬間だった。 

 

初めての冬

 

 八ヶ岳南麓に住み始めてほぼ2か月が経ちました。といっても毎月、愛知へ戻っているので、3分の2がこっち、というところでしょうか。ウィンタースポーツが特に好きでも得意でもない私が、わざわざ厳しい冬を選んで山暮らしを始めたのは、単なる成り行きですが、意味づけするとしたら、冬を越せたら、あとは怖いものなしということで、楽観的な資質を大いに使って飛び込んだ初めての冬です。

 

 標高1250Mの高原の冬は、寒さが厳しいのは当然ながら、晴天率が高く、空気が澄んで気温が低い。雪は決して多くないけれど、降るとそのあとほぼ凍るので、階段に積もった雪はすぐさま除けておかないと危険です。ある朝、あんまり寒いのでひょいと温度計を見ると、氷点下7度を指していたときには、さすがにのけぞりました。室内なのに!です。バスルームのドアが凍って開かないばかりか、シャワーの水栓具が凍って動かないとか、水滴が氷の柱になっていたり、しばらく留守をして戻ってくると、花瓶が割れている!ん?よく見れば、花瓶の中の水が、花瓶の形に凍っている。割れたのは水が凍って膨張したためだったのです。バナナが完熟していると思いきや、皮をむいてみると熟したのではなく、あまりの低温で皮が黒くなっていただけだったり、オリーブオイルが凍って半固体になってしまったり、これまで経験したことのない次元の違う寒さに、少々へこたれる日もありますが、そこは持ち前の呑気さで、面白がることにしています。

 

「今週のクロイツ」にも書いているように、寒い日にはストーブのスイッチを入れる前に、まず自家発電を目指して身体を動かすとか、日が落ちると、辺りはもう真っ暗だし、起きていると寒いので早く眠るとか、実際、薪割りだの枝集めや松ぼっくり拾いだの、身体を動かさずには生活ができないことも多く、疲れ果てて眠くなってしまうので、ある意味、以前よりずっと健康的なのが、山の暮らしです。

 

 散歩コースは、林を抜け池の縁を歩き小高い丘に上ります。東には八ヶ岳…といっても南麓なので、編笠山(2524m)の丸く雪を被ったてっぺんが見えるだけですが、西には南アルプスが開けて、朝から大音量で交響曲が鳴り響いているかのような風景が広がっています。雪の尾根が光り輝く鋸岳や甲斐駒が恐ろしいほどくっきりと迫って見える日もあれば、雲に隠れて全く姿を現さない日もありますが、どんな風景もご褒美のようなもの。まさに冬ならではです。

 

 うれしいことの一つに、周辺にはヤドリギが多く、白樺や桜、ズミの木に、大小さまざまなヤドリギを見ることができます。私が育った伊勢では、ヤドリギをつけた木の下を通って学校へ通った記憶があるので、ヤドリギを見るとなんだかとても懐かしい気持ちになるのです。自然界が冬眠するこの時期に花を咲かせ実をつけるヤドリギは、冬だからこそ遠くからでもよく目立ちます。アントロポゾフィー医学ではヤドリギ療法として、がん治療に用いられることはよく知られていますが、冬、神秘の植物ヤドリギを間近に見ることのできる幸運に胸が躍ります。

 

 2月も終わりに近づくと、気温は低くても日に日に明るくなり日差しも強くなります。ほんの少し前までは、秋に降り積もったラーチの葉をめくっても霜柱しか見えなかったのに、今ではそこここに緑の褥が広がる予兆が潜んでいます。暮らすには少々厳しい高原の冬ですが、冬から春へ、そして夏、秋、また巡ってくる冬を、私は何回、楽しませてもらえるでしょうか。

山暮らしはじめました

 

 八ヶ岳南麓に住まいを移してから一か月が経ちました。と言っても、その間、半分は愛知に戻っていましたので、ちょうど半々、山暮らしは超初心者のままです。それでも不思議なことに、最初はあんなに冷え切っていた家が、息づいたように暖かくなり、ブスブスと煙っていた薪ストーブも今ではご機嫌に家を暖めてくれています。急場しのぎで作った鳥の餌箱は今も健在。夜明けを待ちかねて小鳥たちが代わる代わる訪れます。今年一番の雪の朝、まばゆいほどの銀世界となりました。心が洗われるというのはこういうことを言うのでしょう。

 

 薪ストーブの前で、揺らめく炎を見ながら柔らかな午後の日差しについ微睡んでしまう。目覚めたとき、自分があまりに幸福に満たされていて、急に罪悪感に襲われました。私、こんなに幸せでいいのかな。こんなに楽しくていいのかしら。今、世界中が抱えている問題から、自分がまるで乖離しているようで…。でもでも、すぐに思い直しました。これは今という瞬間、うれしいときに微笑むことのどこが罪なのか、と。

* * *

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 明石の鯛が食べたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 朝日の射す明るい
台所がほしいと

すりきれた靴は あっさりと捨て
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばし味わいたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで 送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
思い込んでしまった村と町
家々のひさしは 上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背を伸ばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに 土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣り道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ 伊勢の海も見ていないと

女が欲しければ奪うのもいいのだ
男が欲しければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ
茨木のり子「もっと強く」第1詩集『対話』より
* * *
 時々自分に問いかけます。いったい人間というものは、幸福というものに指がかかると不意に不安になるのはなぜ?その指を自ら外したほうが安心だったりもします。決して安穏と至福を貪っているわけでもないのに、突然、浚われて失うのではないかという恐怖。それならば初めから期待しなければ、がっかりすることもないでしょう、と。
 でも本当にそうなのかしら。ほしい物はほしいと言って、その責任を引き受ければいい。
 自分はこの程度と、道半ばで手放したり、幸福を半分に留めておいたりする必要はないのです

人生の転換点

 

 もう10数年前のこと。既に廃刊になってしまったけれど、毎月発行のアントロ関係の情報誌の巻頭頁に、小文を書いていた時期があった。連載の最終回、私はこんなことを書いた。

 

 

 空が明るい。夕映えの時間が少しずつ長くなっている。ほんの数週間前は、日が落ちるとあっという間に夜になったものだが、いつしか光は春を孕み、冬枯れた木立さえも、今では燃え立つ炎のようだ。空も大地も樹木も目覚め、鳥たちが旅立つ日も近い。胸躍る春の幕がもうすぐ開く。

 

 年の初め、日頃離れて暮らす家族が帰ってきた。無人だった子どもたちの部屋にあかりが灯り、大人になった彼らの足音が家中に響き渡る。昔のように笑い声が充満して、若い息吹に心は浮き立つけれど、気楽な独り暮しから、母親に戻るのは年々億劫になってきた。潮が引くように彼らが去ると、華やぎは薄れ、静けさは重く澱んでいくが、それも悪くない。波のように来ては去る。人の往来、季節のめぐり。その繰り返しをずっと同じ場所から見ていたい。新しい春もまた、私はここでずっと見ていよう。

 

 
 同じ場所で、動くものをずっと見ていると、自分が動いていては見えなかったものが見えてくる。当時、私は50代後半、自分のことを「港」のように感じていた。けれど70代になった今、あの頃に立っていた場所からは見えなかったものが見える地点にやってきた。「年齢」という新たな「霊的な器官」は、60代半ばくらいから急にはっきり自覚できるようになった。
 
2年前の初夏、バイオグラフィーワークでは、「21の鏡(Vチャート)」とよんでいる、ミラーリングの自分のチャートを、なんとなく、ぼんやり眺めていた。すると不意に人生の転換点が、15歳、27歳、48歳と、美しく真横に並んでいるさまが浮かび上がってきて、そして何よりもその延長線が、まぎれもなく「今」を指していることに私は慄いた。
 
 それまでの私の転換点は、自分から、というより外からやってきた。否応なくやってくる様々なことを、案外素直に「はい」と受け取ってきたように思う。そのおかげでいろんな経験をさせてもらったし、きっと能力も開発されたに違いない。で、これからもそれでいいのだろうか、と思った。いやいや、そろそろ自分から転換点を生み出そうよ、私。そう思って決めたのが、一生に一度くらい自分が住みたいところに住んでみようということだった。思えば生まれてこの方、純粋に自分だけの意志で、ここに住みたいと思って住処を決めたことはなかった。
 
 物理的年齢から言えば、便利のいいところに住み替えるというのが当たり前かもしれない。それに対して思いっきり反対路線だ。さて、これが今後の私の人生にどんな影響を及ぼすのだろう。なんせ温暖な伊勢で生まれ育った私は、暑さも寒さもほどほどがベース。標高の高い山の暮らしを始めるには、最も厳しい季節ではないだろうか。あまりの寒さにシッポを巻いて逃げ帰るかもしれないけれど、この冬が乗り越えられたら、もう恐いものなし! 試すだけの価値はある。「港」から出ていく古びた小舟、40年近く住んだ愛しい我が家、家族の歴史、思い出がいっぱい詰まった、この場所を離れてでも。
   
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身体の傷は心の傷?

 

私は痒いのが、超がつくほど苦手。

だから虫刺されにめっぽう弱い。

蚊に刺されると、アレルギーを起こすのか

刺されてもいないところまで赤くなる。

夏は、いつも、どこかをポリポリ掻いている。

 

そんな私に、

 

ひどく刺されたね。

 

いや、これって刺されたわけじゃなくって

反応して、増えてしまうのですよ。

小さい時から蕁麻疹っ子だったから

肌が覚えているのでしょうね。

 

肌にトラウマを持ってるってことなのかしら。

と言いながら、ハッと気づいた。

 

誰に、何の、言い訳をしてるんだ 私は。

 

 

それなら、なぜスターオブべツレヘムと

クラブアップルを飲まないの?

 

頭ではわかっていたのに、アクションにつなげていなかった。

 

 

慌てて、その日から飲み始めました。

身体が覚えてしまっているかゆみへの過剰反応。

その必要はないのに、そこにこだわり続けていた私。

無意味な記憶の上書き保存。

 

あら不思議

 

ピタリと止まりました。

新たな赤み

もう発現してこない。

あれは心の傷だったということか。

 

恐るべし

バッチフラワー!!

 

 

70歳のひとりごと(3)

 

外出自粛のおかげで家が片付く。

 

部屋の隅にずっと置き忘れていた箱を開けたら

出てくる出てくる

手紙の束、

あの箱もこの箱も手紙の山

よくぞ、これだけ取ってあった。

 

これだけもらっているということは

自分も同じくらい書いていたに違いない。

 

心のこもった手紙、

書いている人のまなざしが浮かぶ手紙、

もうこの世を去った母からの手紙。

 

それにしても、私、いつから手紙を書かなくなってしまったのだろう。

日付はほとんど古いものばかり。

ここ20年位ですっかり通信手段が変わってしまった。

 

ふと思う。もし私がいなくなって

こんな手紙が残されていたら、家族が困る。

そう思うと、忍びないけれど、自分で始末するしかない。

 

ありがとう。さようなら。

優しい気持ちだけを残して。

 

 

 

70歳のひとりごと・3

柔らかだったオーク(欧州ナラ)の葉がずいぶんしっかりしてきました。受粉した雌花がドングリになりかけてます

70歳のひとりごと(2)

 

世界中が緊張に包まれているけれど、この瞬間にも、生まれてくる命がある。

 

歴史を振り返れば、戦時中にも同じことが言えたのだろう。

なぜ人は、選んだかのようにその時代に、生まれてくるのかしら。

 

詩人茨木のり子さんは二十歳に敗戦を迎えた。

「わたしがいちばんきれいだったとき」という詩は

もし彼女が中学生で敗戦を迎えていたら、生まれなかったはず。

 

そう思うと、人が生きる目的と時代は、

否応なく結びついていると思わざるを得ない。

 

同様に70歳の私が、COVID-19によって経験している「今」と

こどもたち、そして進学や就職で、新しい世界に出て行く若者たちが

経験している「今」は、おそらくちがう。

 

私のあしたは、若者と比べるまでもなく、短い。

食料も、マスクの数もトイレットペーパーだって一人分。

第一、あまり心配もしていない。外出自粛も苦ではない。

けれど、もし、私に育ち盛りの子どもがいたら、

どんなに不安なことだろう。

身の安全もさることながら、教育、経済、この先いったいどうなっていくのだろうと。

 

人と人が分断され、

世界中の人々が「境域に立つ」経験をしている。

いまだ、その全容は見えてこないけれど、

この危機の背後に何が待っているのか。

それはいつになったら現われてくるのか。

新しい意識、価値観、生き方...

それをちゃんとキャッチできるだろうか。

そのためには、十分に目覚めて、準備をしなくてはならない。

 

私に何ができるだろう。

 

わからない。

 

けれど、きっと、

こうして考えることが大切なのだと思う。

 

 

刻々と季節が移っていく。

オークの雌花が美しい。秋には実を結ぶ。 

70歳のひとりごと(1)

 

昨年の夏、私は70歳になった。

 

だからもう「アラ7」というよりも、立派な70代だけれど、まだまだ70代は初心者なので、老いのあれこれ、だからこそ日々出会う発見を、忘れないように書いておこうと思う。

 

あれっ、いつの間にか年下ばっかり、

と気づいたのは30代後半だったかな。

 

それでもその頃に出会ったアントロの世界には、年上の凄い人たちがいっぱいいたから、まだまだと甘えていられた。ところが、いつの間にか、自分が自分の親の年代になり、それどころか、すでに祖母の年代になっている、と気づかされるのに、さほどの時間はかからなかった。この間のスピードたるや!!

 

自分の「魂の仕事」に出会うためには、時間のかかる地道な経験が私には必要で、スロースターターだったなあと思うけれど、その分、こうして今もそれがちょっとは役に立っていると思わせてもらえるのは幸運だ。毎日、毎夜、眠りに入っていくときに、今日もいい一日だったなあ、と呟いて身を横たえるように、いい人生だったと永遠の眠りにつけたなら最高だけれど、逆にあがくのもいいかもしれない。それは全く安心して素の人間である自分をさらけ出せるってことだから。

 

とにかく私はとても恵まれている。これからそれをちょっと自慢してみようと思っている。実際、人の幸福な話なんて、絶対に面白くないとは思うけれどね。ふっふ・・・つづく

 

子育ての行方

最近、私の周りでは、ご家族の介護が始まったり、あるいは親世代との別れを経験する方が増えてきました。振り返れば、私自身、50代に入って間もなく実家の両親の介護が始まりましたから、多くの人が50代から60代にかけて、そういう問題と直面せざるを得なくなるのでしょう。

 

私の場合、実家のある伊勢と、自分の住む名古屋を、何度も何度も往復する遠隔介護でしたが、そんな生活が当たり前のようになっていった時、ふと、私の両親にとって、彼らの子育ての行方が、「今の私」に現れているのではないか、と思ったことがありました。


もちろん、私が生まれ、成長していくための条件の中には、私自身の個的なものに加え、時代や土地、文化、社会、環境、親、教育等々があるわけですから、子育ては、親だけの問題ではありません。


でも、養育者、保護者という親の立場から見て、自分の子どもが成長し、何十年も経ったあと、逆に子どもに世話をされる側に立たされたとき、どんな思いを抱くのでしょう。今や自分の保護者、介護者となった子どもの中に、おそらく自分たちの子育ての行方が、垣間見えるにちがいありません。


というのも、私自身が否応なく、年齢の先頭集団に少しずつ、近づいているからです。そして、私が老いていくことに対する、私の子どもたちの思いや言動の端々に、過去には養育者であった、私の在り方・・・つまり子育ての結果からくる、鏡映関係を見ることがあるからです。


いつから私は、親の子育ての影響を引き受けて、自分育てに移行して行ったのでしょう。

 

そんなことを考えていると、原因と結果という、ある種の法則によって、すべての人は生まれ、必要な人と出会い、意図に導かれつつ仕事をし、当たり前のように死んでいけることは、なんて幸せなことなのだろうと思います。



私のペット履歴

6/17(日)は、BFRP東海の特別講座、アニマルプラクティショナーの佐藤真奈美先生をお招きして、愛犬に寄り添うくらし~について、たっぷりお話を伺いました。

 

人間と犬という異種間であっても、家族として暮しを共にするには、どんな努力が必要なのでしょう。動物行動学的アプローチとはまた別の理解の仕方とは、いったいどんなことでしょう。

 

バッチフラワーを使うとき、対話に基いてレメディを選ぶのは、プラクティショナーなら誰でも知っている基本中のキですが、佐藤先生のアプローチは、人と人との間で交わされる対話と同様、人と動物のあいだにも、対話が成立するという地平に立っています。つまりペットも、様々な要因から、不安や怒り、不安定さ等々に陥るとき、そこには必ず意味があり、それが人間にとって問題行動と映ったとしても、まずしっかりとその声を聞き、そして受けとめ、説明すると言ったプロセスを重要視するということです。これはペットに限らず、子育てにも通じる、コミュニケーションの極意なのではないでしょうか。

   *   *   *

 

それにしても、私が小さかった頃(1950年代)と比べると、現代のペット事情は隔世の感があります。当時、犬猫は買うものではなく、貰うとか拾うというのが主流でした。どこの家でも犬たちは、あまり快適ではないところに一日繋がれて、冷ご飯に残り物の味噌汁をぶっかけ、みたいな食事をもらっていたと思います。野良犬も普通にいました。敗戦後、社会は落ち着いたとはいえ、それでも、多くの人々にとって、食べるものに事欠いた記憶は、さほど遠いものではなかったはずです。犬猫はペットというより、番犬、ネズミ捕り、みたいな感じで、家畜に近かったのかもしれません。

 

いつ頃から犬猫はペットになったのでしょう。

確実に言えるのは、以前はもっと短命だった犬や猫が

ペットになってからは長生きになったことです。

 

私は小さい頃、特に犬が好きでした。どこの犬でもすぐに触ろうとして、咬まれたことも二度三度。それでも動物に対する恐怖心に繋がっていないのは、ちょっと面白いと思います。なぜかなあ。そんなことをつらつら考えているうちに、自分のペット履歴を辿ってみようと思い立ちました。

 

 

第1七年期 幼児期

物心ついたときには、猫がいたような...。名前も種類も何も覚えていません。気配のみ。

 

第2七年期前半 犬 雌 雑種 ユリ 外飼い

はっきりと覚えているのは、名古屋の親戚から紀州犬の雑種をもらってきたこと。冬の初め、子犬は父のコートのポケットにすっぽりと納まって、電車に乗って伊勢までやってきました。私は父にくっついて座り、横からポケットに手を突っ込んでは、子犬の感触を楽しみました。どんなに心が弾んだことでしょう。誰が名付けたか、「ユリ」という名前でした。

 

お産もしました。部屋を暗くして段ボールに布を敷いて、、、子犬たちはどうしたのでしょう?全く記憶がありません。知らない間に親がよそへやってしまったのでしょうか。やがてユリはアカラスという皮膚病になりました。赤くなった皮膚を母が洗っては、薬を塗っていたのを覚えています。いつ死んでしまったか、その時私はどうしていたか、全然覚えていません。

 

第2七年期後半 後半 犬 雌 雑種 ジュリ 外飼い

そのあとにやってきたのは、これまた雑種の「ジュリ」でした。ユリも白い犬でしたが、ジュリも白い中型件でした。可愛かったけどやんちゃでよく逃げ出すので、泣きながら探しに走り回りました。ユリに比べると、ジュリはかなりのアンポンタンでした。

 

ある冬の朝のことです。近所のチカちゃんと学校へ向かって歩いていると、いつの間にか逃げ出してきたジュリが、私のあとをついてくるではありませんか。学校までは1時間ほどかかる距離、もうすぐ学校につくというところでしたから、連れて戻ることもできません。「ジュリ、家へお帰り」そういって背を向けて歩き出すと、後ろでなにやら物音がしました。振り返ると、ジュリが「肥溜め」に落ちていました。今ならありえないのですが、当時の農村の風景としては、ごく当たり前に、畑のあちこちに、小さなお風呂ぐらいの「肥溜め」が蓋もされずにあったのです。寒い時期のことですから、表面は固く凍っていたのでしょう。どうやらジュリはその強烈な臭いを発するものに引き寄せられ、上を歩いたようで、中ほどの柔らかいところに来て、ズブズブと嵌り込んでしまったのです。助けるのは、私しかいません。大急ぎで大きな木切れを拾って差し出すと、うまくしがみついて、何とか助け上げることができました。

 

ああっ、プルプルしちゃダメ~~と叫んでも、無駄です。

うううぅぅぅぅ・・・くさ~~い!!(涙)

 

必死にすがりつこうとするジュリを振り切って逃げる私

校庭中を駆け回り、挙句の果てに校長室に逃げ込んだ私は、ジュリに負けず劣らず大バカ者でした。

 

あとはご想像にお任せします。

 

 

第3七年期 十代後半の頃になると、我が家から動物の気配が消えていました。今、思えば、両親は私たち子どものために犬を飼ってくれていたのかもしれません。姉は大学で家を離れ、私は思春期真っ只中、自分のことだけで、精一杯でした。

 

第4七年期 鳥 コキボウシ(インコ)雄

外国航路に乗っていた叔父の家で、キボウシという大型のインコを見て、どうしても欲しくなり、次の航路で通るときにと、おねだりをしました。半年くらい経って、キボウシよりちょっと小型、体長25センチくらいのコキボウシが届きました。

 

全身が鮮やかな緑色の羽で覆われ、肩と頭の上がちょっと黄色くて、おしゃべりが大得意でした。名前は「ワイワイ」と名付けました。私が家にいると、ケージから出たがり、「ワ~イ、ワイ」と呼びかけます。電話のベルが鳴れば、いち早く、モシモシとご挨拶。結構長文もしゃべりました。私の肩の上が定位置で、くちばしで布を挟みながらよじ登ります。左肩から右肩へ行ったり来たり、私はジャングルジムか、という感じでした。おかげで私のTシャツはいつも穴だらけ、膝の上でひっくり返り、お腹を撫でてもらうのも好きでしたから、とてもよくなついていたのだと思います。

 

私が結婚して家を出た後、たまに実家に帰っても、もう以前のように、甘えたりしなくなっていきました。私は裏切り者だったのかもしれません。

 

画像はコンパニオンバード.コムのサイトで見つけて勝手にお借りしてきました。

https://コンパニオンバード.com/ この子、ワイワイにそっくりで、びっくりしました

 

第5七年期 犬 ポインター 雄 外飼い

子どもたちが3歳と1歳になった時、私たち家族はそれまでのマンション暮らしから、大地の上に引っ越しました。引っ越しの翌朝、玄関まで段ボールの山に埋もれているところに、やってきたのがイングリッシュポインターの雄「ビンゴ」でした。血統書付きの犬を飼ったのは、後にも先にもこの一度きりです。正直、このタイミングは最悪でした。ちょっと待って、と言ったのですが、こちらの都合は全く無視されてしまいました。ごめんね、ビンゴ、と今も悔いが残ります。

 

家の中はてんやわんや、子どもたちは小さくて、散歩に同行もできません。あっという間に1か月が過ぎ、2か月が過ぎ、社会性やしつけをする大事な時を逃しました。あるとき、林を夢中で駆けまわっている彼の姿を見て、その美しさにほれぼれしつつ、いたく反省。折よく警察犬のトレーナーの方と知り合い、それからは十分運動はさせてもらえるようになりました。ずっと後になって、ドラマ、ダウントンアビーの狩猟のシーンでは、何匹ものポインターが馬と一緒に野原を駆けまわる姿が出てきます。それを見るにつけ、そう、こんなふうに飼ってほしかったよね~と今も胸が痛みます。

 

第6七年期 犬 雑種 雌 外飼い  猫 亀 鳥

息子が小学校1年生になった時、同級生の親御さんから、犬を拾ったけどもらってくれないか、という話が飛び込んできました。すでに持て余し気味のビンゴがいましたから、無理無理、と断りたかったのですが、子どもたち3人の必死キラキラ瞳に負けて引き受けたのが、私にとっての最後の犬、「ミミ」です。名付け親は長女。冒頭の画像の茶色の雑種です。

 

それからしばらくすると、掃き出し窓の外に、毎日猫がやってくるようになりました。どこかの飼猫らしく、おびえた様子も威嚇するようなこともありません。ある日ドアを開けて話しかけると、スッと家に入ってきました。抱き上げて聞きました。「あなた、どこの子?名前はなあに?」、ふいにゴジャという声が聞こえてきたので、その子は「ゴジャラ」という名前になり、ゴジャラは毎日、息子のベッドで眠るようになりました。

 

また、近くの牧野が池公園では、甲羅がまだぷよぷよの亀を見つけ、うちの亀にしたり、ご近所からセキセイインコをいただいたり、木の上から落ちてきたヒヨドリの赤ちゃんをしばらく育てたり、30代後半から40代は、子どもたちの成長に動物たちも入り混じって、賑やかで華やかな一時代でした。

 

第7七年期~第8七年期  犬 猫 亀

ビンゴは8歳で亡くなり、取り残されたミミはとてもしょんぼりしていました。その頃、夫は入退院を繰り返し、私は付き添いで不在がち、末娘が一人で留守番をすることが増えました。一人では淋しいので、ミミは娘のナニー犬(?)としてめでたく室内犬に昇格。いざ間近で暮らしてみると、ミミの賢いことは驚くばかりでした。芸をするわけではないのですが、こちらの言うことがとてもよくわかるのです。興味深いのは、家族という群れの中で、ミミは下から2番目という位置取りでした。夫は入院中で不在、長女もイギリスにいて普段は家にいませんし、息子の関心はもっぱらゴジャラでしたから問題外、ミミにとって私はヘッド、末娘は面倒を見てやらねばならない存在、というわけで、私~ミミ~末娘という図式でした。

 

夫を見送り、実家の遠隔介護が始まると、いやがおうにも私は不在がちになりました。その頃には、ミミが大事にしていた(?)末娘もイギリスに行ってしまいましたし、息子も大学生になり、以前の私と同じ、自分のことで精いっぱいです。ゴジャラは相変わらず息子と寝ていましたけれど、ミミはどんどん老いていきました。母が逝く2か月前、ミミは末娘の帰国を待って、彼女の腕の中で息を引き取りました。

 

そしてそれから3年後、父が逝く5日前に、ゴジャラがこの世を去りました。私は伊勢におり、ゴジャラの最後の世話は息子がしました。不思議なほど、ペットと家族は強く結ばれていました。

 

疲れて帰宅すると、息をする動物がそばにいることの温かさは、何ものにも代えがたいものです。ですが、家族の不在は彼らにとっては甚だ辛いもののように思えて、それ以来、もう私のペットは終わり、と決めました。おわり

 

ロンドン便り HotTug

楽しい画像がロンドン、エンジェルに住む娘から届きました。

 

この日はイギリス中が、ロイヤルウェディングに沸いていましたが

エンジェルのカナルでは、王妃のものとされているらしい白鳥が

(記憶にある限り)過去最多の8羽のヒナたちとお目見え。

3羽しか生まれなかった年もあるのに、なんと豪勢な!!

幸運のおすそ分けとばかり、道行く人も足を止めます。

 

そこへやってきたのが、ホットタグと呼ばれる超人気のボート。

あったかいバスタブに浸かりながら、カナルをゆっくり流れていきます。

お揃いの帽子をかぶって、シャンパン飲んで、

この日は最高のボート日和。

さぞかし気持ちがいいことでしょう。

 

冬の間も結構、行き交ってたよ、と聞くと、ちょっと可笑しい。

日本なら、さしずめ真冬の露天風呂で雪見酒?

 

ちなみにホットタグはオランダ発祥、

そういえばオランダは水の国、運河の国ですものね。

ホットタブとタグボートをくっつけた絶妙ネーミング!

 

タグボートは大きな船を引っ張るパワフルなボートのことです。

 

でも、いくらタグボートだからと言って、これはいくらなんでも引っ張りすぎでしょ。

ゴムボート4つ。道行く人との温度差がまた笑える。

生まれたヒナが全員無事に巣立ちを迎えることはほとんどないようです。

一羽減り、二羽減り、という感じで、

たった一羽になってしまったヒナと親鳥が泳いでいる様子は

ちょっと淋しい。

 

でも今年は大家族、みんな揃って大きくなあれ。

これからの成長が楽しみです。


みたび蓼科


二度あることは三度ある。 ほんとう!?

 

恥ずかしいけど、またしても来てしまいました。

今度は娘と「茅野」駅で待ち合わせ。この駅に来たのはいつのことか。数十年前、当時は小さな駅だったのに、今では文化施設も併設されたすっきりした駅舎になっていて、時の経過を実感。驚いたのは風景が違ったこと。当たり前?ここから八ヶ岳が見えるってしらなかった! 

茅野駅から八ヶ岳が見える

くねくねとヴィーナスラインを昇りながら、あれこれ話していると、お互いの記憶の在処が全く違っているのが明らかになってきます。36歳違いの母娘。風景が同じに見えるわけはありません。子らの幼い日を懐かしむばかりの私に比べ、末子の娘はまだ赤ちゃん、写真を通しての記憶しかなく、逆に大人になってからの友人たちとの記憶の方が強烈らしい。母のノスタルジーはあえなく打ち砕かれることとなりました。前回は紅葉真っ盛りだった蓼科湖も初冬の黄昏はひっそりと。茂っていた時には気づかなかったヤドリギがぽつんと浮かんでいました。

桜の木にもヤドリギがつくって初めて知った

蓼科湖の畔、葉を落とした桜にヤドリギ


 

案内された部屋はひと月前より大きな部屋。(前回は一人でしたからね)部屋に続く廊下の壁には天皇陛下御一家をはじめ、皇族方ご滞在の写真が並んでいました。そうそう、この部屋です。友人と10年前に泊まったのは。出窓の下にベンチがついて、窓からはハイジの庭が見下ろせます。この風景、最高! 室内は木のぬくもり、大げさでない上品なしつらえが、とても居心地がいい。

ホテルハイジのスタンダードツインルーム

洗面所のシンクは二つもあるのに、この部屋のサイズにしてはベッドは小さめ。極め付きはチェストの中に収められて外から見えなくなっているTV。日本のホテルでは部屋のサイズに関係なく、大きなTVモニターが据えられていることがほとんどなのに、どおりですっきり。


 

何と、当夜の宿泊客は私たちだけだったのです。

 

これはまさしく貸し切り・・・いいの?

落葉に覆われた露天風呂への小道

冬木立に囲まれた露天風呂では

鳥の声、渓を流れる川音が響き渡っていました。

シェフお任せのフレンチディナーのオードヴル、自家製生ハムと大王イワナ、添えられた色とりどりのメレンゲが可愛い



10月の初めと終わり、そして11月の終わり、この秋、合計3度も訪ねることとなった御射鹿池。こんなきれいな青い空はないというほど美しく晴れた今日の朝、冬ざれていく風景には、きりりとした美しさと寂寥があり、水面に映る太陽の輝きになぜかしら胸が熱くなります。ひと月前とは打って変わってひっそりとして、訪れる人もまばら。

 

東山魁夷の絵「緑響く」のような深い緑と出会うには、これから半年ほど待たねばなりません。次にここに来るのはいつかしら。

山々よ、木々よ、さぁ、お眠りなさい。

 



ホテルハイジ 蓼科ふたたび

晩秋のホテルハイジ
広い庭の隅にある可愛いキャビン
ホテルハイジのディナー、オードブル

自家製スモークサーモンのムース、信濃雪鱒、大王イワナ、ウイキョウのババロア

不思議なことがあるものです。

 

秋のクロイツニュースに、奥蓼科の御射鹿池に行ったと書いたことから、古い友人夫妻からなかば強引に(笑)誘われ、それにまんまと乗っかって再び来てしまいました。しかも10年前、彼女と一緒に泊まったホテルハイジに。

 

10年ぶりの蓼科が、なぜ1か月に2回も!?

 

ホテルハイジは旧皇族、伯爵家の東伏見家の別荘を当主が1975年にホテルとして開放。当時日本はバブルがはじける前、一億総中流意識にみんなが浮かれてた?そう、夢を見ていた時代だったかもしれませんが、それでもホテルハイジの格調の高さは別格でした。皇族方をはじめとして、海外のVIPも宿泊されるようで…。小さい子たちを抱えた身では、ティータイムを楽しむのが関の山。庭に点在する可愛い小屋は子どもたちの格好の遊び場でした。今も変わらずきれいに手入れをされていました。懐かしい~

 

ハイジにはシングルはないので、一番小さなツインを選びましたが、その部屋はチロル家具で統一されている可愛い部屋です。10年前に泊った時は出窓の下にベンチのついた奥行きのある部屋でしたが、今回、一人で泊まるにはこじんまりとしてちょうどいい。木立に囲まれた露天風呂で一息ついてフレンチを堪能した後はおしゃべりに花が咲き、瞬く間に夜は更けていきました。


 

翌朝早く目が覚めたので、15分ほど下ったところにある蓼科湖まで朝の散歩に出かけました。雲海の向こうに南アルプスの峰々がのぞき、まばゆい日の光が木々の彩りをさらに鮮やかに照らします。気温は1度、吐く息も凍りそう。湖面には朝もやが立ち込めています。この幻想的な風景が見られたのも早朝だからこそでしょう。逆光の中に紅葉が浮かび上がります。


 

蓼科湖がこんなに美しいのだから、あの御射鹿池もさぞやと期待に胸は膨らみつつ、車を走らせます。(運転は私ではありませんが)

ところが、観光バスが何台もいて、人の多さにびっくり。肝心の池は先週末の台風のせいか、静謐さのかけらもありません。時を経ず2度来たからこそわかる、その違い。すべてに通じる「時」があるということを。


御射鹿池から、カラマツ林を抜けて横谷観音へ。10年前、友人とこの場所に来た時、大滝神社という古びた神社にお参りをしました。黒曜石の祠に続く急勾配の参道は階段もなく何度も滑りそうになりましたが、けれどその参道の両側に広がる林から、風が吹くたびにカラマツの葉が、サラサラと音をたてて、黄金の雨のように降り注ぐのです。友人と私はその音に聴き入りました。あの瞬間、あの世とこの世は一つになり、夢を見ているようでした。

 

ところが、ここでも期待は裏切られます。今ではすっかり整備され鳥居も立派になり、参道にはちゃんと階段もできています。随分、雰囲気変っちゃったね。

 

階段を数段上がってすぐに何やら異臭がすることに気付きました。これって何? どうやら枕木の防腐剤の臭いのようです。う~~たまらん、仕方がないとは言え、すごすごと階段を下りる私たちでした。

 

さぁて、「時」を学んだ私の蓼科行き

二度あることは三度ある? かも。


横谷観音の展望台から臨む風景


真夏のクロイツニュースから

あれよあれよという間に8月になりました。
はやくも立秋、暑中お見舞いから残暑お見舞いへ

先日、思いついて阿智村に行き
何となく夜のゴンドラに乗って、
標高1400メートルの星空を見てきました。
宿が貸してくれたマットの上に寝転がり、
ブランケットに包まってもまだ寒い。
夜風は冷たく、夜露がしっとりと降りてきます。
待つこと30分、一斉にあたりのライトが消されると
突然、浮かび上がる天の川、夏の大三角。
思わず知らず涙がこぼれます。
それにしても、折角の星の饗宴
ライトのみならず、マイクも消してほしかったなぁ

 


クロイツのおすすめ

「BIEPレベル1 名古屋2日間コース」
日程 2017/9/17-18日・月祝)10:00~17:30
会場 ウィルあいち
受講料 
38,000円(教材、消費税含)
バッチ国際教育プログラム(BIEP) は、バッチフラワーの創始者エドワード・バッチ博士から直接継承された教えを体系的に学ぶ世界共通のプログラムです。あなたも正規のコースで学んでみませんか?2日間でBIEPレベル1が取得できます。

名古屋レベル1*2日間コースへGO!



クロイツのカレンダーから
夏の名古屋オイリュトミー集中講座
名古屋オイリュトミーの会主催で、毎年夏と冬に開催しています。
初めての方もどうぞご参加ください。
日時:8/19-20(土日)10:00~12:00、13:30~15:30
会場:イーブル名古屋(地下鉄東別院徒歩2分)
講師:横山守文(オイリュトミスト)/ピアノ(鈴木里美)
参加費:1コマ3,000円、1日5,000円
持物:底の薄いシューズ、動きやすい服装(女性はフレヤースカート等)
お申込・お問合せ 090-1097-0230(鈴木)/kreuz706@gmail.com(中村)
.......★.......
BFRP東海
は、東海地方で活動する
バッチ財団登録プラクティショナーたちのネットワークです
詳細は BFRP東海のHPブログ等ご参照のうえ
問合せ・申込みは各企画の担当者名を書いて、
BFRP東海メール bach38tokai@yahoo.co.jp へお送りください


レメディ研究部(対象:BIEPレベル3以上)
日時 8/22(火)10:00~12:00
場所:日進市岩崎公民館 2F和室
参加費:300円
担当:田中美帆子(要予約)

バッチのおしゃべりランチ会
日時:9/4(月)12:30~14:00ごろまで
場所: 自然の薬箱 2階カフェ&キッチン
参加費:各自の飲食代のみ
担当:井神七子(要予約どなたでも参加できます

第85回 バッチの読書会
「なんじ自身を癒せ 第7章」
日時:9/15(金)10:00~12:00
会場:岩崎公民館2階 和室
参加費:500円 (当日集めます)
持物:バッチの遺産、マイドリンク、お弁当、お菓子など
担当:岩田千亜紀(要予約どなたでも参加できます

★読書会終了後、引き続き7月のバッチセンターツアーの
報告会があります。お楽しみに!
「バッチ三昧の旅」は ブログでぼちぼち更新中です。

アストロロジーライターのSayaさんによれば、占星術を意味するアストロロジーという言葉には「星の会話、星の言葉」という語源があるそうです。この夏、冒頭で書いた通り天上の星々に感激し、 前回のメールで取り上げた、タウマゼイン(存在驚愕)、存在することへの賛美、畏れを改めて実感した私は、以前から星読みに関心があり、いつか星の言葉が読めるようになりたいと思っています。最近では単なる星占い、またマニアックな西洋占星術の域を越えて、一億PVを誇る、大人気の星読みライター、石井ゆかりさんのような存在もあって、アストロロジーの世界もずいぶん裾野が広がりました。

 バイオグラフィーワークでは、人間に働きかける諸力として、惑星や12星座も学びに含まれますが、惑星に比べると12星座は~宇宙の真夜中~まだまだ未知の分野で、情報が決して多くありません。せめてオイリュトミーの、12星座は子音として動くことを足掛かりに探ってはみても、総合的に捉えるのは難しい。占星術は実際に宇宙を運行する星々、天文学がベースにあるわけですから、ここはひとつ占星術の基本を学ぼうと、ジュピター東海(バイオグラフィーワーカーの東海グループ)で話し合った結果、秋も深まる11月23日(木・祝)『12星座と人間』というテーマで、『星々と木々』『百合と薔薇』でおなじみの丹羽敏雄さんを招き、1日講座の計画を立てました。一人ひとり自分のホロスコープを手にしながら12星座に親しもうというわけです。
 星々を巡る旅をご一緒しませんか?ご案内は後日サイトにてお知らせします。

 今日は立秋、明日8日は水瓶座で満月が起こります。そしてお天気次第ですが、午前2時22分ごろから1時間ほど掛けて、月が欠ける部分月食が見られるそうです。また13日は、夏の夜空のハイライト、ペルセウス座流星群が見頃を迎えます。条件がよければ1時間に30個も!? 睡眠不足が続きそうです。とはいえ、今はその前に気になる台風5号、こうして書いている間も、時折、激しく雨が窓を叩きます。あちこちで雨風の被害が出ていますが、どうぞ大過なく通りすぎますように。

それでは皆様、名残の夏を健やかにお過ごしくださいませ。
* * *

最後まで読んでくださり有難うございました。愛と感謝をこめて。

 

このメールはクロイツにご縁のある方、BIEPを学ばれている方にお送りしています

 

配信不要、アドレス変更の場合はご遠慮なくご一報ください

 

 

クロイツ 中村かをる
* * *

 

愛知県日進市岩崎町石兼56-72

 

Tel/Fax:0561-72-9612  info@kreuz7.com

 

KREUZ+ https://kreuz7.com

 

梅雨のクロイツニュースから

6月も終わりに近づきました。
2017年が明けたのはついこの間だったような気がするのに、
時の流れの早いこと。
「時」の使い手になりたいと願いつつ、
すっかり使われているのが日常です。

甲斐信枝さんの『雑草のくらし』に描かれている
空き地のスケールには、はるか遠く及びませんが、
クロイツの庭はさしずめ雑草の王国、
6月に入る頃には草の勢いは日に日に増して
今やもうお手上げ、草抜きではなく草刈りが必要です。
それでも木漏れ日の中で、
胸元まで伸びたヒメジョンの白い花が
ゆらゆらと揺れている様は、えも言えず美しく、
まぁいいか、という気になっています。
窓辺の向こうはコナラの木、
雨間に鳥のさえずりが聞こえてきます。

あまりにも有名で、今更の感がなくもないのですが、
谷川俊太郎さんの処女詩集『二十億光年の孤独』の集英社文庫(2008)に
収められている「自伝風の断片」のなかに、
父親である谷川徹三(哲学者)の
「妙に記憶に残っていること(昭和34年)」という一文があります。

「…その時私は、そういう気質に俊太郎が生まれついたことを、
なかば嬉しく、なかば気がかりに思って、それを母親に話したものだった。…」 
当時5,6歳だった俊太郎さんが、庭で急にジダンダを踏んで泣きだしたので、
どうしたかと見たら、犬にちょっかいを出されたカマキリがかわいそうで、
何とかしてと訴えており、それで犬を追っ払ったらすぐに泣き止んだ。…
大人になったあとも、家の中に入ってきた蟻やハエ、クモさえも殺さず、
家の外にそっと出していた、と続きます。
 
このくだりを読んで、私はふと、まど・みちおさんを思い出しました。
そして二人の非凡なる詩人に共通していたのが
「いきているもの」に対する眼差し、
その根底にある「驚異(タウマゼイン)」だったことに、
激しく胸を打たれました。

タウマゼイン(驚異、驚愕)というギリシャ語は、ウィキペディアに出ている例を出すと
「 ふと空を見上げた時、そこに無数の星々を見る。何とはなしに、こんなことを考える。
「この星々はいったいどこから来たのか、この世界はどこまで広がっているんだろうか、
この広い宇宙の中で、なぜ私はここにいるのだろうか、そもそもなぜこういう世界があるのだろうか」
こうしたことを問うた時、そしてそこに自分の知的理解の及ばない問題があると気づいた時、
人はある種の「驚異」を覚える。こうした驚異のことを、哲学者たちはタウマゼインと呼んできた。

哲学も化学も文学も、すべて驚き「A」「ああ!?」から始まったのかも?

ここでいう驚きは、単に珍奇なこと、未知への好奇心や興味を指すのではありません。
もっと本質的で根源的な「存在することに対する驚き」です。
まど・みちおさんの詩には、その「存在驚愕」が、分かりやすい言葉で、たくさん出てきます。
かつて、朝日新聞の天声人語で取り上げられて一躍有名になった、
「ぼくが ここに」は、その代表かも知れませんが、
それ以外にも「カ」とか「木」とか、動物、植物を問わず、
それらの詩を貫いているのは、存在することへの畏敬の念です。

《りんごが ひとつ/ここに ある/ほかには/なんにも ない//
ああ ここで/あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ/》「りんご」

今、世界中で起きている天災、人災、争い、複雑に絡み合った問題や困難等々、
それらは見方を変えれば、多くの犠牲を払いつつも、
私たちを成長へと導くものかもしれません。
そしてそのほとんどは遠くの出来事であり、我が身に降りかからない限り、
真剣に向き合うことも少ないのです。
来週半ば、EU離脱、続発するテロ、火災等々、熱波に揺れるイギリスに出かけます。
日常のロンドンは下の画像に見られるように、6月には稀な暑さの中、
子どもたちがボートの練習に励む風景もありのどかですが、
当然周囲からは、大丈夫?という声がかかります。
けれどそこは恐怖や不安ではなく、
畏敬の念、タウマゼインという言葉を思い出しながら、
異国を旅してこようと思います。そのご報告はまたブログで。
皆さま、どうぞよい時をお過ごしください。
蟹座新月の日に

初夏のクロイツニュースから

5月、まばゆいばかりの新緑、木々の梢は、高みへと伸び、私たちの眼差しを空に誘います。普段、空を見上げることの少ない人も、この季節ばかりは、ついつい遠くを眺めてしまうのではないかしら。
 GWに娘たちがイギリスの自然遺産、ジュラシック・コーストを訪れたと、青い海の画像が届きました。冬並みの寒さと曇天が続いていたにも関わらず、奇跡的に晴れたのだそう。
こんな深い青を見ると、谷川俊太郎さんではないですが、あゝ、ふるさとは海のかなた、なんて言葉が浮かんできます。周辺ではアンモナイトの化石がいっぱい見つかるのだとか。三畳紀やジュラ紀に生きた首長竜や爬虫類を想像しつつ、春から夏へ、桜、藤、栃、栴檀(せんだん)など、梢を彩る花を透かして見る空に、「我がふるさとは空のかなた」などとつぶやいてみたりしています。

目が覚めた時、ふいに、言葉とかイメージが浮かんでくることってありませんか?

私は、毎日じゃないけれど、割とあります。
決して夢の続きなどではなく、突然、ふっと、です。
眠っている間に、見えない世界で、お叱りを受けたり、励まされたりしているのか、
コトンと何かが落ちてきたように答えが出たり、
思ってもみなかったアイディアが浮かんだり、覚悟が決まったりします。
日程を決めかねているような時に「月を使え~」なんて聞こえてくるわけです。
かなり、あやしい話しですけれど、これホントです。

それで、私の「今朝のお告げ」(笑) は、
なぜか「セントーリー」という植物の名前でした。
その言葉に目覚め、微睡みながら、
それは「余裕がある」ってことだ、とぼんやり考えました。

バッチフラワーで、セントーリーと言えば、
「親切で優しく他者に尽くす気持ちが強すぎて、
自分のニーズを無視しているうちに、人の言いなりになってしまう」
ネガティブな状態を指します。

私は横になったまま、朦朧とした頭で、
相手を優先させることは、自分は切羽詰まっていない、
いいよ、と受容できるのなら、それは余裕ってものだなあ、と
とりとめもなく、思いを巡らしていました。
だからといって、いつもというわけにはいかない。
常に他者を優先していたら、相手の成長の機会を奪うことになるし
なによりも、自分で自分を虐めていることになる。
そう、献身の気持ちは持ちつつ、適切な自己主張がポイント!

そこまで来たとき、急にハッと覚醒しました。
え!?なんで、セントーリーなの?と、自分に問いました。
はて、今の私って、何か、言いたいことが言えないでいたかしら?

さしあたって、思い当たることはありません。

でも、まだ形を取ってはいないけれど
私の無意識の海の中から浮かび上がる泡のように、
何かが声を上げようとしているのかもしれません。

誰にでもあることだと思うけれど
たとえば、先送りしていること、
たとえば、諦めていること、
たとえば、状況を見過ぎていること、
たとえば、本来の目的から外れている責任や義務など、

ゆっくりと考えてみなければなりません。
振り返り、自分への問いを立て、ゆっくりと考えてみましょう。

何せ、これはお告げなのですから ね。
それでは、また!

下の画像はセントーリー(Centaury)
リンドウ科 シマセンブリ属 和名ベニバナセンブリ

ブラームスはお好き?

私が初めてブラームスという名前を知ったのは、多分、母が歌う子守歌からだったと思う。当時にしては珍しく西洋音楽好きだった母は、毎夜、子守歌を歌ってくれたが、それが日本の子守歌ではなく、シューベルト、ブラームス、モーツァルトなどなどだった。私はモーツァルトの子守歌の、♪~月は窓から~銀のひかりを~そそぐこの夜~♪、というところが特に好きで、しつこくリクエストをしたものだ。

 

1954年、フランス実存主義の影響を色濃く持つフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」が、弱冠18歳の若さで世界的なベストセラーとなった。その5年後に書かれたのが、「ブラームスはお好き?」だった。中学生になっていた私は、なぜ、モーツァルトではなく、ブラームスなのだろう、と思いながら、むさぼるように読んだ。

 

それから何年経っただろう。1977年の春、サンフランシスコのオペラハウスで、アシュケナージ指揮のブラームスを聴く機会があった。ワクワクしていたのも束の間、演奏が始まると間もなく気分が悪くなり、もう聴くどころではなかった。ブラームスを聴く時は事前の食事をしてはいけない。気をつけようと思った。それにしても、もったいないことをしたものだ。

 

木曜日、豊田あげつまクリニックのホール、ノバリウムで、県芸の教授陣による「ブラームス室内楽の夕べ」のコンサートがあった。デュメイのCDを聴いて好きになった、ヴァイオリンソナタ第1番と、あまり知らないピアノ四重奏曲第2番だ。渋い...なんてカッコいいプログラムだろう。そうそうたる演奏者たちの奏でる響き、円熟、重厚、軽妙洒脱~教授、准教授ともなれば、後進の指導が大きな仕事であろう彼らが、表現者だけで生きていただろう若かった頃とは、おそらく違う世界を見せてくれている、なんて贅沢な至福の時間だろう。。。

参りました。

 

ブラームスはお好き?

もし、特別にお好きじゃなくても、

ぜひどうぞ。

 

ブラームス室内楽全曲演奏プロジェクト

2017/5/23(火)18:45

ザ・コンサートホール 名古屋伏見

フランソワーズ・サガン(1935-2004)

富裕な家庭の第3子(末子)としてフランスに生まれる。18歳のデビュー作で世界的名声とともに巨額の富を得る。莫大な収入を得たものの浪費も激しく、 酒、たばこの他、自動車事故で重症を負った時の痛み止めのモルヒネから麻薬中毒となり逮捕されたこともある。

 

ユーミンの「セシルの休日」に出てくるセシルは、サガンの「悲しみよこんにちは」に出てくる主人公の女の子、ということを知ったのは、ずいぶん後の話しです。


4月のクロイツニュースから

4月、いつものメール配信からメルマガへの切り替え作業が手間取り、クロイツニュースのお届けが遅くなりました。皆さま、ごきげんいかがでいらっしゃいますか? この辺りでは桜も咲き終わり、芽吹きの季節となりました。痛々しいほどの新芽が、日に日に普通の若葉になっていくのを見ると、その鮮度を留められないことに、なんだか切ない思いがしてなりません。生きているものは、みな移ろっていくのは当たり前のことですが、生命が溢れる春ほど、それを感じさせられるときはないのかもしれません。ホリーの花に蜂が集まり、スターオブベツレヘムの花も開き始めました。植物たちとともに、春をしばらくとどめ、楽しみたいものです。 

4月、新生活が始まった方も多いことでしょう。引っ越しを重ねていると、自然に身の回りの取捨選択がされていきますが、私のように同じ場所に30年以上も住んでいると、いつしかどっさり、暮らしの澱のようなものが溜まっていきます。家族が増えては、またやがて減っていくプロセスで、その都度、整理整頓をしていかねば、決して片付かないわけです。とはいえ、独立していった子どもたちの、物置部屋みたいなところもあって、一家を抱合している実家のような存在は、私個人だけでは決めきれないものも多く、なかなかすっきりとはいきません。

私自身、整理が嫌いなわけじゃないですが、正直に言うと、断捨離を掲げることにはちょっと抵抗があります。無駄も捨てがたい。無駄があってこそ、味があろうというもの。箪笥の肥しには安心感があるし、捨てられないメモ書きも、時には重要な意味があるかもしれない。働かないアリ理論なんてものもあるじゃないですか、というようなことを考えていたある日、ここ何年か、折にふれ、思い出そうとして出てこない言葉がありました。それは「回心」、確かメタなんとかって言うんだったよなあ、とおぼろげな記憶を辿っても、どうしても出てこなかったものが、ふと会話の中に入ってきて、それが糸口になってググってみたところ、「メタノイア」という言葉だと分かりました。ああ、すっきり。

その翌日のことです。毎日使っているファイルの引出しに、古い手帳が入っているのに気づき、何気なくしおり紐の挟んであるところを開けてみたら、な、な、なんということでしょう。そこには 私の字で、「メタノイア 回心 ギリシャ語」と書いてあるではありませんか!

それは2000年の手帳でした。私ったら、17年前の手帳をいつも使うところに入れていた、かつ、しつこく思いだそうとしていたことになります。今でこそすぐに答えは得られそうですが、17年前のことですから、その過程ではググるという言葉も発想もなかったのです。それにしても興味深いのは、答えが分かった途端に、それまで隠してあった答案用紙が、ひらりと出てきたみたいな感じです。いったい誰が隠して、誰が出したの?と思わず聞きたくなります。もちろん、この手帳を処分していたら、この面白さは味わえませんでしたけれど。

4月、何か新しいことを始めたくなる季節でもあります。自分の身辺を見回して、捨てるもよし、まだまだとそばに置いておくのもよし、すべてそれらにはベストなタイミングがあって、その「時」を捉えることの方が重要な気がします。

年の初めに思うこと

 

2017年は酉年

あちこちに「飛翔」、「羽ばたく」などという

鳥にまつわる言葉が書かれている。

 

BFRP東海御用達、名古屋市東山植物園の

動物園エリアが鳥インフルによって

12月から閉鎖になってしまった。

動物たちにとっては、

きっと静かなお正月に違いない。

 

思えば私は鳥が大好きだ。

外国航路に乗っていた叔父からお土産に

体長30センチ位のキボウシインコをもらい

「ワイワイ」と名付けて、肩に乗せたり話をしたり、

よく遊んでもらった!?

(物まねがとても上手で、私の名前はもちろんのこと、母そっくりの声音で、電話の応対などお手のもの)

今ではワシントン条約で規制されているので

あの頃のように簡単に手に入らないかもしれない。

 

私のワイワイは風切り羽を切られていて

室内程度しか飛べなかったけど、

翼を広げて飛翔する姿に、

強烈な憧れを持ってしまうのは

いったい、どこから来るのだろう。

 

フィギュアスケートのジャンプ、

バレエや、パラグライダー然り、

トンボや蝶々などなど、

私たちは重力を克服することに

とてつもなく魅力を感じているらしい。

 

それは、人間の身体を超える、ってことだから?

 

いつか、どこかで

飛んでいた、いや、浮遊していた

意識の名残か...

 

身体を持った人間の私たちは

しっかりと蹴ることのできる大地があってこそ

飛ぶことが可能になる。

 

さあ、私よ、しっかりと大地を蹴って歩こう。

今、在ることを味わいながら。

 

 

クロイツでのバッチ国際教育プログラム

水星のマーキュリーは翼の生えたブーツと帽子が目印

 


移行の季節

秋の植物観察会2016~東山植物園で

 来る日も来る日も雨か曇り空~これではイギリス人じゃなくても、お天気でゴース(希望を失くした時に使うバッチのレメディ)になっちゃう、と笑い話ではなく本気で思うほどでしたが、ピンポイントで雨が上がったのはスゴイ!

 今日で9月も終わり、夏でもなく、秋でもない。そんな移行の季節の植物たちはどんな表情をしているのでしょうか?

 新旧取り混ぜて集まった10人で、いつものコースを植物に挨拶しながら回ります。先発隊のチェックの通り、春までは、雑草扱いだったクレマチスが、観察者(私たちのこと)が押し寄せたからか、「センニンソウ」と小さな白い名札をつけてもらっていました。よかったね、エッヘン!名前が付くとちょっと格上げした感じです。オークはドングリをいくつかつけていますが、剪定のきつかったハニーサックルはちょっと淋しい。

それにしても、なんだかさえないのはお天気のせい?

いまいちジミ~な雰囲気が植物園内に漂っています。これって移行期だから?

 

季節ごと、当たり前のように姿を変える植物。花から種に、種から花にメタモルフォーゼ!(すべてクレマチス)

子どもでも、乳歯と永久歯とが生え変わる頃とか、ツクツク背が伸びていくときとか、縦横のからだのバランスがちょっと変に整わない時期、可愛いんだけど、妙に不細工になったりします。私たち現代人は、できるだけピーク(若さ)の丘を長続きさせたい、って思っていますが、それってホントにいいのかな、と時々自問自答します。特に植物の変化を見ていると、人間だけが同じところに止まっていられるわけがない、と思うわけです。つまり宇宙と呼応するように、植物は季節のめぐりを知っていて、ちゃんと次の段階に移行していくけれど、人間は特別で、外見は若さを保ったまま、内的に成熟できる? のかな。いやあ、そうじゃないでしょ。内的にも成熟したくない人もいるかもしれないけれど、昨日より今日がよくなろうとするのが自然の摂理。そのために次の扉を開けるには、何かを手ばなすというのは、浦島太郎に限らず昔からのお約束。


 

 一番きれいな時っていつなんだろう。花が咲くころ?

そう、花が咲くとみんな目が惹かれる。きれいな色がパッと辺りを染めて、香りもして、虫を呼び寄せる。植物は様々な方法で次の世代につながっていくけれど、受粉した途端に、色も香りも目的を果たしたかのように収縮へ向かう。

 誰もが知っている、花の美しさは永遠じゃない。

 永遠じゃないからこそ、美しい。

 それも誰もが気づいていること。

 

 

 

 じゃあ、移行期って本当にさえないのかな。ただ、見る目がないってことなんじゃないかな。私の中にある、きれいの基準が、花とか若さとか可愛さとか、スマートさとか、そういったものしか認めていなかったら、当然見落としている「美」があるってことだもの。

 そう思っていたら、今回、素敵な発見が、スィートチェストナット(栗)をスケッチしていた仲間から、もたらされました。ほら、栗のイガの頭のところ、雌花の名残が見えるでしょ。雌花の下が栗の実!!そしてイガイガの形の美しいこと。まるで1本1本が木のようで、みんな、目をキラキラさせて見入りました。見る目があれば、世界はどんどん美しくなるのかも。

 

BFRP東海のブログで、植物観察の詳細をご報告しています


予期せぬ出来事

子育てフェスタが終わって一段落

次に控えていることを考えていたからか、

昨夜からとてもハイパーになってしまった私、

睡眠時間が一気に減ります。

朝からテンションが上がり、仕事がはかどる!はかどる!

 

窓を開けることも、何か食べることも忘れて

夢中でPCに向かっていましたが

Hさんが出かけることもあって、作業を中止、

朝食をつくりはじめました。

 

朝のお決まりメニューは

まずはケールと林檎とバナナのスムージー、

キッチンの扉裏にある包丁入れから

ぺティナイフを取り出すと

パン切ナイフがひっかかって

アッと言う間もなく、垂直に私の足の上に!

 

イテテ・・・落ちたところが切れて出血・・・

あゝ、パン切ナイフで助かった!

大したことはありません。

まずはレスキューレメディを飲み、きれいにふき取った後

周辺にレスキュークリームを塗って絆創膏を貼ったら、

それでおしまい。一件落着となりました。

が、

もし逆だったら、と思うとぞっとします。

ぺティナイフの先端は鋭利です。

あの角度で落ちたのなら、きっと刺さりました。

好事魔多し。調子に乗ってるとき

案外、事故が起こりやすいものです。

 

そうそう、天使が私を蹴飛ばして足をすくったかも。

こんな時は無理は厳禁。

今朝は久しぶりに雨が降っています。

少し落ち着いて歩調を緩めましょう。

ほんと、ほんと、ありがとう。 


帰りました!

揺れるイギリスを映すかのように

いつも以上に不安定で。ころころ変わるお天気、

EU残留か離脱を問う国民投票では

スコットランドの時のように

結局は「残留」だったね、のはずが、

期待は裏切られ、どよめくロンドン、

やり場のない気持ちも晴れると

楽しみにしていたユーロカップでは

まさかのアイスランドに敗退。

 

世界で最もお金持ちといわれるイングランドチームが

パートタイマー選手さえいる

アイスランドチームに負けたとあっては

ますますがっくり。

窓に貼られたREMAINの文字もイングランドの国旗も

ひっそり姿を消しました。

 

そんな歴史的瞬間も、今のところは対岸の火事で

今回はウェールズへ

そして前回行けなかったキューガーデンへ。

毎度のことながらの歩いて歩いての植物三昧の旅。

で、あっという間に帰国となりました。

帰国便はフランクフルト乗継ぎで、初のロンドンシティ空港から。

コンパクトでビジネス仕様。まだ工事中のところもありましたが

市内からも近く便利な空港です。

初めてって、ちょっとドキドキしますね。 


行ってきます!

 

EU離脱か残留かで、揺れるイギリスに、

ドンピシャ国民投票めがけて、行ってきます。

といっても、決して

狙ったわけではありませんが。

 

おりしも6月のバイオグラフィーワークでは

鉄の女、マーガレット・サッチャーの

人生を取り上げたばかり。

彼女が、欧州寄りではではなかったのはなぜ?

案外イギリス人にとっては、普通のことなのかもしれません。

東洋人には、理解不能なところがありますが。

歴史的瞬間に立ち会うか?

 

ともあれ、今年の旅の目玉はウェールズ

バッチ博士が初めてレメディに相応する植物を

見つけたアスク川流域を訪ねます。

 

またぼちぼちと、旅のご報告をいたします。

 


やさしい子らよ

やさしいちちと

やさしいははとのあいだにうまれた

おまえたちは

やさしい子だから

おまえたちは

不幸な生をあゆむのだろう

   池井昌樹 絵本『手から、手へ』より抜粋

 

3月末、ブログに「人生にYES!」を書きながら

なんとなくすっきりしない私に

1冊の本が届きました。

 

昭和の家族写真のようでいて

どこか、「あの世」的な「永遠」を思わせる

植田正治さんの写真とともに構成された

『手から、手へ』池井昌樹さんの詩集です。

 

どんなにやさしいちちははも

おまえたちとは一緒に行けない

どこかへ

やがてはかえるのだから

 

人によっては、やさしさだけではなく

むしろ、物心つかないうちから、

たとえ、それが愛にくるまれていたとしても

「NO」ばかり、言われて育つこともあります。

そういう場合、私たちは、

自分が傷つかないよう、無意識に

見かけ上の「YES」を言って、

辻褄を合わせたりもするのです。

 

おとなになっても、

外側からの「YES」が、ほしくてたまらない。

人の顔色が気になる。

人から評価されたい。

 

でも本当に必要なのは

内側から満ちてくる「YES」なのでしょう。

 

汲めども尽きぬ泉のように

たとえ、やさしさだけを手渡されたとしても

内なるYESをつぶやくことは

まことにむずかしい。

 

でも、この詩が語る言葉のように

 

怯んではならぬ

憎んではならぬ 

悔いてはならぬ 

 

やさしさは「ちまみれのばとん

 

どんな苛酷と思える人生にも

「YES」が言える。

それを支える一筋の光

それを人は私の中の「わたし」というのではないかしら。

 

ベルト・モリゾ「ゆりかご」1874
ベルト・モリゾ「ゆりかご」1874

準備ができた?

この家に住みはじめてはや33年

庭の真ん中にある欅は2階の屋根をとっくに越えた。

見上げても届かない空の上で、今、芽吹きが始まっている。

毎日、毎日、

来る日も来る日も、私はその木を見てきたけれど、

その木も、ずっとそこに居て、

私を、家を、私の家族を見ていたのだ。

家族は、その木が大好きで

晴れた日にはその下で食事をし、子どもたちは遊んだ。

その周りで歌い、走り、落葉をかき集めて焚火もした。

 

欅は何を思っているのだろう。

 

今、ツリープロジェクトでその欅を観察している。

観察し、スケッチを重ねていると

見てきたつもりで、全然見ていなかったことに気づく。

そう、こんな風に観てはこなかったのだ。

 

スケッチブックの真っ白な一ページに

柔らかい黒鉛筆で、ていねいに欅の冬芽を描く。

どの冬芽の下にも必ず葉痕(葉の落ちた痕)がある。

つまり新しい芽は前年の葉の付け根(葉腋)に出来る。

 

スィートチェストナットやオークのように

冬芽が出てきても、なかなか葉が落ちない木もあるけど

普通、広葉樹は、

冬芽ができると安心したかのように葉が落ちる。

「準備ができたね、それでは行くよ」というように。

 

ふと思う。私達にも同じことが言えるのかも。

それに気が付いていないだけで。 

立派なハルニレの木(札幌で)
立派なハルニレの木(札幌で)

人生にYES!

先日、久しぶりに会った少女が、

とても美しくなっていて、びっくりしました。

聞けば、希望の高校に合格したとのこと。

おめでとう! 身体中から自信があふれています。

 

あぁ、そうか。

人生がわたしに、「YES」を言ってくれた時

こんなふうに輝いたものだった。

  

  少女よ、

  今のあなたには、届かないだろうけど

  人生はいつも、あなたに「YES」と

  言ってくれるとは限らない。

 

どんなことがあっても、どんなに傷ついても、

何もかも失ったとしても、無数の涙のあとで、

それでも、人生に「YES」と言える自分になる。

 

痛みや悲しみの向こうにしかない

自分だけの「YES」を

あなたが人生に対して言う

その変容の瞬間を経て

人生は真に輝き出すのだから。

 

 

Knaus 野原の少女
Knaus 野原の少女

霧の中で思うこと

今朝、目が覚めると、外は真っ白だった。

雪ではなく霧......

何も見えません。こんな霧は久しぶり。

  

  いつも見えるものが見えない

  って、ちょっとこわい。

  境界がわからない。

  って、こんなに不安になることだったのか。

  

すごく前だけど

季節は今頃

鳥羽のパールロードを走っている時

深い霧にあってしまった。

あの道は、海にせり出すようにカーブが続く。

いつ海に落ちてもおかしくない、と

冷や汗をかきながら、

必死でハンドルにしがみつく。

 

なんとか抜け出た時はヘロヘロでした。

脱力・・・

 

道路を踏み外すことは、とても怖いのに

見えない世界の境界を越えることに

わたしたちは、無頓着。

 

自分の分をわきまえなかったり、

人の領域に勝手に踏み込んだり、

自分の感情のありかを見失うことも日常茶飯事。

 

見える世界から学ぶ事は、

なんてたくさんあるのでしょうか。

 


お正月

あけましておめでとうございます。

新しい年を迎えました。

昨日と今日の間には、何の変りもないはずなのに

ダイニングの窓辺に差し込む光までも、

なにかしら

あらたまってみえるから不思議です。

 

私は年末からの風邪が年が明けても治らず

おかげでぐうたらしたお正月になりました。

睡眠を十分にとり、ゆっくりのんびり。

窓からはおひさま燦々。ゴキゲンなお正月です。


親子の対話

上の画像はすべて

東山植物園のハニーサックル

蕾から開花、結実、そして・・・

先日、娘とスカイプで長話をしたやり取りを

友人たちに話したところ、一瞬、沈黙。

「親子じゃないみたい」と言われて、

びっくりしてしまいました。

「え~どこが?」という私に

「だって、親子なら、もっと、モロな感情が出るもんでしょ。」とのこと。

なるほど! そういえば、見かけによらずクールだよね、とも言われる。

 

で、つらつら考えてみると、

これは、やはり子育ての途中から遠距離になったせいかも。

 

第1子の長女がイギリスに行ったのは1993年の秋、

13歳になったばかりのことでした。

思春期前期、不安定さの真っただ中。

今のようにラインもスカイプもなく、それどころか、

まだ携帯もインターネットもありません。

国際電話のコレクトコールにヒヤヒヤしながら、

ちょっとした愚痴や苛立ちに、じっと耳を傾ける。

口を出したくなる時もあるけれど、

ガマンガマン、ただ寄り添うだけ。

母親の不用意な言葉は、他人以上に傷つけることもあります。

近くにいれば、修正可能かもしれない。

でも、離れているから、自然に、

迂闊な言葉が出なくなりました。

 

不安から、怒りから、親は子どもに、本当の気持ちではなく

感情的な言葉を投げつけてしまうこともありますが

それが本来の家族らしい会話だとしたら、私たち親子は?


どの家族にも対話には特有のスタイルがあります。

好き勝手に思ったことを言い放てる親子、

ある意味、その正直さ、無遠慮さが、ちょっと羨ましい。


距離と時間がつくった親子の対話のかたち。

とにかく、私の「聴く力」は子どもたちによって

育てられた、ってことらしい。



美術館を梯子する

10月、11月と、ちょっと頑張った自分へのご褒美に、

今回は、春頃から固く心に決めていた

没後20年―調和の器‣永久の憧れ

「ルーシー・リー展」に、姫路市立美術館まで行ってきました。

 

そればかりか、ここまで来たなら、スルーは無理でしょ、と

兵庫県立美術館の「パウル・クレー だれにもないしょ」まで

一日で回る計画。 ちょっとやりすぎ。

 

初姫路です。雨に煙る白鷺城をめざして、11時過ぎには美術館到着。

赤レンガの落ち着いた美術館、中は強靭な糸をピーンと張ったような静謐な空間、

初期の1921年~の作品から1990年88歳までの作品 200点が展示されています。

宇宙を閉じ込めたような青いボールがまっさきに目に飛び込んできました。

ひとつ、ひとつ、対話するように見ていくと

あっという間に3時間が経っていました。なにも食べていないのに、お腹がいっぱい。

食事をする間もなく姫路を後に、大急ぎで神戸三ノ宮へ向かいます。

すでに3時を回っています。がらりと雰囲気が変わって、現代的な兵庫県立美術館。

ここは、4月にホドラー展を観にやってきたところ。

そういえば、あの時もチューリッヒ展と、美術展の梯子をしましたっけ。


こちらもまた、とても力ある美術展でした。

 謎かけ、謎解きをしているような作品群。

強いまなざしのクレーも印象的でした。

異なる世界の間を行き来するパウル・クレー

この世で僕を捉まえることはできない/僕は死者たちのもとに/

そして未だ生まれていない者たちのもとに住んでいるのだから/

クレーの絵を観ていると、もう絵画の世界には、

新しいものは生まれないんじゃないか、と思わずにおれません。


それにしても、少々くたびれました。

子育ての行方

2015/9/29 ミカエル祭の満月
2015/9/29 ミカエル祭の満月

9月、末娘の誕生日が来て、

私の3人の子ども達全員、30代になりました。

もうみんな、すっかり大人です。

 

18年前、金木犀の香る美しい秋の日に

夫は、私と3人の子どもを遺して

旅立っていきました。

振返れば、大変な時もありましたが、

それぞれみんなよく頑張りました。

子どもたちは、まだ幼かったのに、

誰一人、それについて、

文句を言わなかったのは、えらい。

 

何があっても、それはそれとして、自分の人生を引き受けること。


子どもたちは、見える父親は失ったけど

見えない父親が、とてもいい教育をしてくれました。

 

死者と生者の協力で、この世は成り立っている、と思えば

自力だけで、ことが成されるわけでないのは当たり前。

 

なにもかも、すべてのことに、ありがとう

 

この澄んだ秋の空気の中で、冴え冴えとする心を抱いて

私を追い越していった子どもたちの後ろ姿を

楽しく思う此の頃です。


勢いに負ける

ただいま格闘中、なんとって?


樟の古葉、葉苞、花粉の掃除に始まり

コナラやヤマモモの雄花、欅の花粉

木の花は、目立たないけれど、大量です。


花が咲き始めたころのコナラは

繊細なレースが揺れているように綺麗だけれど

あっという間にこんなふうに、屋根も樋も通路も埋まります。

屋根の上に積もった花殻を掃きよせていたら

生まれたて?細い白い蛇までも一緒に落ちてきました。

向こうも驚いただろうけど、こっちもびっくり。

ヤモリもトカゲも驚かないけど

さすがに突然落ちてこられるとギョッとします。

 

少し庭に出ているだけで、蚊は寄ってくるし

いろいろな種類の蜂がぶんぶん羽音をたてています。

この間までは、ほとんど草も生えていなかったのに

もう足の踏み場もありません。


今年こそ、頑張る!!

早春の決心は、もろくも崩れ去ろうとしています。

あゝ、今年も、この植物たちの勢いに負けてしまうのか。。。


庭をきれいにできる人って、心から尊敬します。

 

ひとやすみ

世の中はゴールデンウィークです。

どこを見てもまばゆいばかりの新緑!

不安定だったお天気もこのところすっかり落ち着いて

気持ちのいい、洗濯日和が続いています。

 

4月から始まった毎週のPTTコースも

前半の3回を終えて、連休明けまでひとやすみ。

とはいえ、5月に入るとバイオグラフィーワークが待ったなし。

今のうちに、準備のための本を数冊読んでおきたい。

チャート作りに観察ノートのまとめ。

考え始めると、うかうかしていられません。

 

こんな素敵な季節に、PCにかじりついてるなんてと、

思いつつ、家の中でじっとしてるのも、案外好きなんだなあ。 


さあさ、ひとやすみ、ひとやすみ。

 

忘れな草も咲きました。

 

わすれなぐさ

絵からリズムが

忙中閑あり!(ホントかな)


神戸までホドラー展に行ってきました。


東京ではタイミングを逃し、この忙しさではもう無理と

ほとんど諦めかけていたところ

長距離バスで行こうよ、私も、もう1回行ってもいいよ、と

東京ですでに鑑賞済みのHirokoさんの言葉に誘われ、

ひょこっと空いた一日、バスで行ってきました。


あゝ 行けてよかった!!

ありがとう~


ドクン、ドクン、ドクン

絵の前に立っていると、空間が波打つように、

こっちまで共振し始めます。


な、なんなんだ。この感覚は。

「感情Ⅲ」1905 ベルン州美術コレクション

このタイトル、意味が分からない。

ホドラーによれば「どんな感情も身振りを持つ」とのことですが


「オイリュトミー」 1895 油彩カンヴァス ベルン美術館

 

これをオイリュトミーというの?

オイリュトミーとは、ギリシャ語で美しいリズム、調和あるリズムという意味。


シュタイナーの運動表現芸術誕生以前に

ホドラーは何をもってオイリュトミーと呼んだでしょう。

 

「自然の形態リズムが感情のリズムと協同すること、交響すること

わたしはそれをオイリュトミーと呼ぶのだ」ホドラー

 

「悦ばしき女」 1910年頃 ベルン美術館


これはまさしくオイリュトミーのイメージそのもの

 

「感情」によって動かされる「身体」、

あるいは「身体」によって動かされる「感情」にかたちを与え

そこに生起するリズムを描き出す。

「木を伐る人」 1910年 ベルン、モビリアール美術館

1911-1958流通 50スイスフラン紙幣の原画

びゅ~んと、すごい力で、身体ごとうねりを挙げていそうです。

兵庫県立美術館の水辺に面したカフェで、

たった今見終わったばかりのホドラーを語り合う。


生きているもの、死んでいるもの

リズムによって吹き込まれるいのち


ホドラー 1853-1918

シュタイナー 1861-1925

バッチ 1886-1936

他にも、多分いっぱい。

19世紀末から20世紀初頭、この時代に

大きな精神性のムーブメントがあったことを、

今更ながら思います。



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