八ケ岳へ一人移住(3)

  移住を実現化するため、次に取り掛かったのは、八ケ岳周辺の諏訪圏域から北杜市小淵沢辺りまでの、定住可能なリゾートマンション、〇〇リゾート、〇〇の森、〇〇ビレッジ等々、管理別荘地の中古別荘、地元の不動産業者が扱っている中古住宅、古民家まで、検索に引っかかってくるサイトを手あたり次第、片っ端から見ていった。

 

ところがなかなかイメージがつかめない。

画面上の物件に、自分が住む絵が描けない。

 

 本来なら予算、物件の広さ、築年数、管理費用等々、条件に合致する物件をリストアップするべきなのだろうけど、初心者ゆえよくわからない。いろいろ見たり聞いたり、情報を集めていくうちに、わかってくるだろうと、とにかく運命の終の棲家を見つけるべく、内覧の申し込みをし、案内してもらい、自分のイメージが固まっていくはずだったのだけれど、見れば見るほど、徐々に自分がどんな家を探しているのか、分からなくなってしまう。目の前に現れる家は千差万別。とても綺麗でかっこよくて築浅だけれど、舗装道路から外れて坂道を延々と上ったところにあるログハウス、湖が近くて眺めもいい。でもなんだか暗い家、キッチンになぜか提灯がいっぱい並んでいて、お店?みたいな家、間取りが定住向けではない家、手入れの行き届いている家から、お皿が洗い桶に入ったまんまの家まで、それはもう混乱の極み。何回目かの内覧後、徒労感に落ち込んでいる私を見て、娘が言った。

ママにとって、何がいいかは分からないけれど、何が嫌なのかが分かったよ。

中古物件だもの、気に入らないところはどんな家にもあるのは当たり前でしょ。そろそろ、ここだけは譲れないという最低条件をリストアップして、あとは自分にとって重要かどうかを見極めるようにしたらいいんじゃない。

 

その頃にはすでに20件ほどの物件を見ており、目も慣れて、世間の相場とか、押さえどころとか、地域や築年数での金額設定など、そこそこ把握できるようになっていた。だからこそ、なかなかしっくりくる家に出会えないことに苛立ちもしていたのだけれど。なんと言っても70歳を越えた私が一人で住むには、若夫婦が移住するのとは違う最低条件があるのだ。まさしくその通りだと、ちょっと頭をがんとやられた気分で、リストを整理をしてみた。

 

*地域は山梨か、長野か=やっぱり馴染みがある長野県。

*価格と築年数は相関関係にあるから、予算の上限を明確にする。

*標高は1200m以上が望ましい…1000mくらいだと夏は空気が重い。寒いより暑いのが辛い。

*となると、別荘地。かつ年齢や男手のないことを考えると管理別荘地。

*後々を考えると、土地は借地権ではなく所有権。

*雪かきを考えると幹線道路からあまり奥まっていないほうがいい。 

*家の広さは30坪程度はほしい。

*土地はそこまで広くなくてもよい

*道路から敷地に入るのに段差がない

*車が複数台停められる

*JR中央線の特急停車駅からタクシーで来られる

*高速道路のインターが近い

*暖炉(薪ストーブ)があればうれしい

*近くに温泉があればなおいい。

 

 整理したとたんに、新着物件としてサイトに上がってきたのがこの家だった。

こんなことってある?

あったのです。

私がリストアップした条件をすべてクリア!!!

 

めでたく、私は、私の家と出会えたのです。

 

八ケ岳へ一人移住(2)

  

 いずれ忘れてしまうだろうから、今のうちに書いておこう。

 移住への思いを決意する半年前の秋、かつて家族で毎夏を過ごした山荘の近くに、東山魁夷の絵のモチーフになった御射鹿池があることに気づき、急にこみあげてきた懐かしさに誘われるように蓼科に向かった。10年ぶりのことだった。そしてその短い秋の間に、なんと私は3回も蓼科に行った。家族で過ごした蓼科、八ケ岳、この時の風景や印象は、やがて移住先を決める際の苗床になったと思う。ブログ「みたび蓼科

 それでも、物事は一直線には進まない。日々の生活はあるし仕事もある。差し迫って引越しをしなければならない理由はないのだから、優先順位を高く保つのはなかなか難しい。ほとんど「引越するする詐欺」になりかけていたとき、1年ぶりに訪れた八ヶ岳の麓、原村の小さなカフェで、移住してきた人たちとの語らいの中、ふとシェアハウスの案内に目が止まり心が動いた。

 

 シェアハウスか...お試しにどうだろう。行くなら一年で最も寒い時だよね。その季節を好きになれたら、山暮らしは可能だろうし。ところでカレンダーを見ると、せいぜい4日くらいしか、家を空けられない。思えば結構、仕事が詰まってたんだ、と思う。そんなので移住なんてできる?いやいや、でもずるずるしてると、実現から遠ざかる。

 

 年が改まり、2019年2月節分、雪に埋もれた原村へいざ!!

 

 結果は見事惨敗。

 まずシェアハウスは無理と分かる。若い時ならいざ知らず、もう心も体も思いっきり我儘になっているし、快適さの幅がめちゃくちゃ狭くなってしまっていることに改めて愕然とする。人と歩調を合わせるのは辛い。狭いのも辛い。元々人に気を遣う方だから、人といると疲れる。なんせおひとり様生活のプロだもの。

 それにしても案外平気だったのが寒さだった。寒さなんて吹っ飛んでしまうくらい世界が美しい。

 こうなったら、リゾートマンション、中古別荘で探してみよう。暖かくなったら活動開始。 

八ケ岳へ一人で移住(1)

  

 70代、一人暮らし、知らない土地、厳しい寒さ、交通不便、という、高齢者がしてはいけない転居禁止事項をすべて無視した私の移住は、周りから驚きと批判をもって見られたり、逆に喝采を受けたりもしたけれど、今のところ、この移住は大成功。今のところ、悪いことは一つもない。振り返ると家族から転居を勧める話が出たのは3.11の後、それは古い家に一人暮らしをしている私の身を心配してのことだったのだけれど。さらにいえば、夫を亡くしたころ、山ふところに住みたいという衝動が起こり(明らかに逃避だったけれど)、そのときは子どもたちもまだ幼く、両親も健在で、住まいは家族のホームとして機能していることが必要だったから、その場所を動くことは現実的ではなかった。

 

 息子夫婦が名古屋市内の、便利でなおかつ自然に恵まれたところにあるマンションに住み始めたとき、かなり刺激を受けて、同様の条件を持つマンションをいくつも見たけれど、結局、具体的に動き始めてみると、いろいろと思うところもあり、そうこうしているうちに気持ちも萎え、面倒くさくなってしまったのだった。

 

 ブログ「人生の転換点」にも書いたけれど、2018年の初夏、バイオグラフィーワーカー養成コースで人生の鏡映関係がテーマで、21歳を基点とした自分のチャートを何気なく眺めていると、突然、雷に打たれたような衝撃が走った。15歳、27歳、48歳と、私自身の人生の大きな変化の時が直線上に美しく並んでいて、その延長線上に「現在」があったからだ。今まで、私は何を見ていたのだろう。人生の晩年に向けて、もうぼやぼやしていられないと、気持ちが定まった瞬間だった。 

 

山暮らしはじめました

 

 八ヶ岳南麓に住まいを移してから一か月が経ちました。と言っても、その間、半分は愛知に戻っていましたので、ちょうど半々、山暮らしは超初心者のままです。それでも不思議なことに、最初はあんなに冷え切っていた家が、息づいたように暖かくなり、ブスブスと煙っていた薪ストーブも今ではご機嫌に家を暖めてくれています。急場しのぎで作った鳥の餌箱は今も健在。夜明けを待ちかねて小鳥たちが代わる代わる訪れます。今年一番の雪の朝、まばゆいほどの銀世界となりました。心が洗われるというのはこういうことを言うのでしょう。

 

 薪ストーブの前で、揺らめく炎を見ながら柔らかな午後の日差しについ微睡んでしまう。目覚めたとき、自分があまりに幸福に満たされていて、急に罪悪感に襲われました。私、こんなに幸せでいいのかな。こんなに楽しくていいのかしら。今、世界中が抱えている問題から、自分がまるで乖離しているようで…。でもでも、すぐに思い直しました。これは今という瞬間、うれしいときに微笑むことのどこが罪なのか、と。

* * *

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 明石の鯛が食べたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 朝日の射す明るい
台所がほしいと

すりきれた靴は あっさりと捨て
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばし味わいたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで 送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
思い込んでしまった村と町
家々のひさしは 上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背を伸ばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに 土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣り道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ 伊勢の海も見ていないと

女が欲しければ奪うのもいいのだ
男が欲しければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ
茨木のり子「もっと強く」第1詩集『対話』より
* * *
 時々自分に問いかけます。いったい人間というものは、幸福というものに指がかかると不意に不安になるのはなぜ?その指を自ら外したほうが安心だったりもします。決して安穏と至福を貪っているわけでもないのに、突然、浚われて失うのではないかという恐怖。それならば初めから期待しなければ、がっかりすることもないでしょう、と。
 でも本当にそうなのかしら。ほしい物はほしいと言って、その責任を引き受ければいい。
 自分はこの程度と、道半ばで手放したり、幸福を半分に留めておいたりする必要はないのです

人生の転換点

 

 もう10数年前のこと。既に廃刊になってしまったけれど、毎月発行のアントロ関係の情報誌の巻頭頁に、小文を書いていた時期があった。連載の最終回、私はこんなことを書いた。

 

 

 空が明るい。夕映えの時間が少しずつ長くなっている。ほんの数週間前は、日が落ちるとあっという間に夜になったものだが、いつしか光は春を孕み、冬枯れた木立さえも、今では燃え立つ炎のようだ。空も大地も樹木も目覚め、鳥たちが旅立つ日も近い。胸躍る春の幕がもうすぐ開く。

 

 年の初め、日頃離れて暮らす家族が帰ってきた。無人だった子どもたちの部屋にあかりが灯り、大人になった彼らの足音が家中に響き渡る。昔のように笑い声が充満して、若い息吹に心は浮き立つけれど、気楽な独り暮しから、母親に戻るのは年々億劫になってきた。潮が引くように彼らが去ると、華やぎは薄れ、静けさは重く澱んでいくが、それも悪くない。波のように来ては去る。人の往来、季節のめぐり。その繰り返しをずっと同じ場所から見ていたい。新しい春もまた、私はここでずっと見ていよう。

 

 
 同じ場所で、動くものをずっと見ていると、自分が動いていては見えなかったものが見えてくる。当時、私は50代後半、自分のことを「港」のように感じていた。けれど70代になった今、あの頃に立っていた場所からは見えなかったものが見える地点にやってきた。「年齢」という新たな「霊的な器官」は、60代半ばくらいから急にはっきり自覚できるようになった。
 
2年前の初夏、バイオグラフィーワークでは、「21の鏡(Vチャート)」とよんでいる、ミラーリングの自分のチャートを、なんとなく、ぼんやり眺めていた。すると不意に人生の転換点が、15歳、27歳、48歳と、美しく真横に並んでいるさまが浮かび上がってきて、そして何よりもその延長線が、まぎれもなく「今」を指していることに私は慄いた。
 
 それまでの私の転換点は、自分から、というより外からやってきた。否応なくやってくる様々なことを、案外素直に「はい」と受け取ってきたように思う。そのおかげでいろんな経験をさせてもらったし、きっと能力も開発されたに違いない。で、これからもそれでいいのだろうか、と思った。いやいや、そろそろ自分から転換点を生み出そうよ、私。そう思って決めたのが、一生に一度くらい自分が住みたいところに住んでみようということだった。思えば生まれてこの方、純粋に自分だけの意志で、ここに住みたいと思って住処を決めたことはなかった。
 
 物理的年齢から言えば、便利のいいところに住み替えるというのが当たり前かもしれない。それに対して思いっきり反対路線だ。さて、これが今後の私の人生にどんな影響を及ぼすのだろう。なんせ温暖な伊勢で生まれ育った私は、暑さも寒さもほどほどがベース。標高の高い山の暮らしを始めるには、最も厳しい季節ではないだろうか。あまりの寒さにシッポを巻いて逃げ帰るかもしれないけれど、この冬が乗り越えられたら、もう恐いものなし! 試すだけの価値はある。「港」から出ていく古びた小舟、40年近く住んだ愛しい我が家、家族の歴史、思い出がいっぱい詰まった、この場所を離れてでも。
   
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70歳のひとりごと(3)

 

外出自粛のおかげで家が片付く。

 

部屋の隅にずっと置き忘れていた箱を開けたら

出てくる出てくる

手紙の束、

あの箱もこの箱も手紙の山

よくぞ、これだけ取ってあった。

 

これだけもらっているということは

自分も同じくらい書いていたに違いない。

 

心のこもった手紙、

書いている人のまなざしが浮かぶ手紙、

もうこの世を去った母からの手紙。

 

それにしても、私、いつから手紙を書かなくなってしまったのだろう。

日付はほとんど古いものばかり。

ここ20年位ですっかり通信手段が変わってしまった。

 

ふと思う。もし私がいなくなって

こんな手紙が残されていたら、家族が困る。

そう思うと、忍びないけれど、自分で始末するしかない。

 

ありがとう。さようなら。

優しい気持ちだけを残して。

 

 

 

70歳のひとりごと・3

柔らかだったオーク(欧州ナラ)の葉がずいぶんしっかりしてきました。受粉した雌花がドングリになりかけてます

70歳のひとりごと(2)

 

世界中が緊張に包まれているけれど、この瞬間にも、生まれてくる命がある。

 

歴史を振り返れば、戦時中にも同じことが言えたのだろう。

なぜ人は、選んだかのようにその時代に、生まれてくるのかしら。

 

詩人茨木のり子さんは二十歳に敗戦を迎えた。

「わたしがいちばんきれいだったとき」という詩は

もし彼女が中学生で敗戦を迎えていたら、生まれなかったはず。

 

そう思うと、人が生きる目的と時代は、

否応なく結びついていると思わざるを得ない。

 

同様に70歳の私が、COVID-19によって経験している「今」と

こどもたち、そして進学や就職で、新しい世界に出て行く若者たちが

経験している「今」は、おそらくちがう。

 

私のあしたは、若者と比べるまでもなく、短い。

食料も、マスクの数もトイレットペーパーだって一人分。

第一、あまり心配もしていない。外出自粛も苦ではない。

けれど、もし、私に育ち盛りの子どもがいたら、

どんなに不安なことだろう。

身の安全もさることながら、教育、経済、この先いったいどうなっていくのだろうと。

 

人と人が分断され、

世界中の人々が「境域に立つ」経験をしている。

いまだ、その全容は見えてこないけれど、

この危機の背後に何が待っているのか。

それはいつになったら現われてくるのか。

新しい意識、価値観、生き方...

それをちゃんとキャッチできるだろうか。

そのためには、十分に目覚めて、準備をしなくてはならない。

 

私に何ができるだろう。

 

わからない。

 

けれど、きっと、

こうして考えることが大切なのだと思う。

 

 

刻々と季節が移っていく。

オークの雌花が美しい。秋には実を結ぶ。 

70歳のひとりごと(1)

 

昨年の夏、私は70歳になった。

 

だからもう「アラ7」というよりも、立派な70代だけれど、まだまだ70代は初心者なので、老いのあれこれ、だからこそ日々出会う発見を、忘れないように書いておこうと思う。

 

あれっ、いつの間にか年下ばっかり、

と気づいたのは30代後半だったかな。

 

それでもその頃に出会ったアントロの世界には、年上の凄い人たちがいっぱいいたから、まだまだと甘えていられた。ところが、いつの間にか、自分が自分の親の年代になり、それどころか、すでに祖母の年代になっている、と気づかされるのに、さほどの時間はかからなかった。この間のスピードたるや!!

 

自分の「魂の仕事」に出会うためには、時間のかかる地道な経験が私には必要で、スロースターターだったなあと思うけれど、その分、こうして今もそれがちょっとは役に立っていると思わせてもらえるのは幸運だ。毎日、毎夜、眠りに入っていくときに、今日もいい一日だったなあ、と呟いて身を横たえるように、いい人生だったと永遠の眠りにつけたなら最高だけれど、逆にあがくのもいいかもしれない。それは全く安心して素の人間である自分をさらけ出せるってことだから。

 

とにかく私はとても恵まれている。これからそれをちょっと自慢してみようと思っている。実際、人の幸福な話なんて、絶対に面白くないとは思うけれどね。ふっふ・・・つづく

 

バイオグラフィーワークで観る・聴く・対話する2019

ジュピター東海の取り組みとしてご紹介した、バイオグラフィーワークで読み解く、杉原千畝の企画「出会いの神秘」が近づいてきました。

 

今回の企画で、私自身は発表やワークを直接リードするわけではありませんが、企画を支える役目としても、杉原千畝の生涯の起点となった八百津町にある記念館は必見と、梅雨の晴れ間を縫って訪ねてきました。

 

杉原千畝記念館のサイトはこちら

 

ウィキペディアで杉原千畝を検索すると、岐阜県美濃に生まれ、3歳には福井県に転居、1年後には三重県四日市へとあり、5歳になって再び岐阜県中津川へ、そこも1年半ほどで桑名へ転居、そして愛知へと移動に次ぐ移動、第1七年期の間に転居が5回!?

なんと動きの多い幼少期なのでしょう。

それにつけても、八百津町という地名が出てこないのに、記念館があるのはどうして?と素朴な疑問がわいてきます。調べてみれば、何やら千畝さんの功績とは無関係の様々な思いがあるようです。

 

それはさておき、とてもいい内容の記念館でした。

来てよかった! 皆さんも行ってみて!!

 

それにしてもこの辺り一帯の緑の濃さはただならぬものがあります。

思い浮かぶのは島崎藤村の『夜明け前』の有名な冒頭の一節です。

 

 木曾路《きそじ》はすべて山の中である。あるところは岨《そば》づたいに行く崖《がけ》の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道《かいどう》はこの深い森林地帯を貫いていた。

 

近くの山並みを見渡すと、街道筋ではないものの、この描写がしっくりきます。こういう空気をまとった両親に千畝さんは育てられたのでしょうか。例え、あっちこっちと転居があったとしても、千畝さんの揺るがなさは、こういう背景があってのことだったのでしょうか。それはまた、6月30日を、お楽しみに。

「出会い」の神秘

 

数千人の命を救った外交官。

彼に出会わなければ

彼が出会わなければ

この奇跡は起こらなかった。

 

2019年6月30日(日)10:00-16:00( 9:30開場)
【場 所】ウィルあいち 会議室6

名古屋市東区上竪杉町1番地
  

地下鉄「市役所」駅 2番出口より東へ徒歩約10分

 

第1部 10:00-12:00 「杉原千畝の人生」 岩田千亜紀  

第2部 13:00-16:00   バイオグラフィーワーク  はらかずこ

         (アートワークとシェアリングを含む)

 

【定 員】30名(28歳未満の方はご相談ください)

【参加費】5,000円  事前振込制です
【お申込み・お問合わせ】ジュピター東海 jupiter.toukai@gmail.com

 

★お申込の際は、参加者のお名前・連絡先 (携帯番号など )をメールでお知らせください。  折り返し参加費の振込先口座をご案内いたします。

ご入金の確認をもって、受付完了とさせていただきます 。
主催:ジュピター東海
後援:(社)バイオグラフィーワーク・ジャパン
   バイオグラフィーワーカーズ・ジュピタ


子育ての行方

最近、私の周りでは、ご家族の介護が始まったり、あるいは親世代との別れを経験する方が増えてきました。振り返れば、私自身、50代に入って間もなく実家の両親の介護が始まりましたから、多くの人が50代から60代にかけて、そういう問題と直面せざるを得なくなるのでしょう。

 

私の場合、実家のある伊勢と、自分の住む名古屋を、何度も何度も往復する遠隔介護でしたが、そんな生活が当たり前のようになっていった時、ふと、私の両親にとって、彼らの子育ての行方が、「今の私」に現れているのではないか、と思ったことがありました。


もちろん、私が生まれ、成長していくための条件の中には、私自身の個的なものに加え、時代や土地、文化、社会、環境、親、教育等々があるわけですから、子育ては、親だけの問題ではありません。


でも、養育者、保護者という親の立場から見て、自分の子どもが成長し、何十年も経ったあと、逆に子どもに世話をされる側に立たされたとき、どんな思いを抱くのでしょう。今や自分の保護者、介護者となった子どもの中に、おそらく自分たちの子育ての行方が、垣間見えるにちがいありません。


というのも、私自身が否応なく、年齢の先頭集団に少しずつ、近づいているからです。そして、私が老いていくことに対する、私の子どもたちの思いや言動の端々に、過去には養育者であった、私の在り方・・・つまり子育ての結果からくる、鏡映関係を見ることがあるからです。


いつから私は、親の子育ての影響を引き受けて、自分育てに移行して行ったのでしょう。

 

そんなことを考えていると、原因と結果という、ある種の法則によって、すべての人は生まれ、必要な人と出会い、意図に導かれつつ仕事をし、当たり前のように死んでいけることは、なんて幸せなことなのだろうと思います。



ジュピター東海の取り組み

 

バイオグラフィーワーカーズ・ジュピターは、養成コースの卒業生たちの同窓会組織ですが、ジュピター関東、ジュピター東海、ジュピター関西、ジュピター九州等々、中国地方や、北海道など、全国に卒業生たちは散らばっており、それぞれの地域で活動しています。

 

さて、ここ東海地方では、1期がスタートした2001年から17年経った今も、1期、3期、6期から各1名、まだ3人しか修了生がいません。ところが、1年後の2020年1月、現在、名古屋で学んでいる9期生が卒業すると、ジュピター東海は、飛躍的に人数が増えます。それはまた、数年後の12期の卒業で、さらに大所帯になっていくはずです。(もちろん、修了生全員がジュピターに入会しての話しです)

 

これまで、ほぼ毎月1回、ジュピター東海の定例会と称して、クロイツに3人が集まっては、ダイアログの練習や読書会、企画の相談など、地道に楽しく活動を重ねてきましたが、気づけばこの3人体制も残すところ、あとわずか。

  

そこで、久し振りに3人で、バイオグラフィーワーカーらしい企画を開きましょう、ということになりました。それはこれまでにもジュピター東海がたびたび取り組んできた、リサーチとワークを組み合わせた企画です。

 

2007年茨木のり子、2008年バッハ、2009年ムンク、2010年ジョンとヨーコ

 

こうして並べてみると、この企画、久しぶりです。

 

バイオグラフィー研究は、いわゆる時系列で出来事を辿るだけではなく、人生の中に起こっている鏡映関係や、メタモルフォーゼ(変容)、プラネットからのアプローチや、カルマとの関係をみていきます。また人生に流れている赤い糸、テーマに沿って、参加者一人ひとりの人生にも光を当てワークをします。

 

開催日は2019年6月30日(日)、場所はウィルあいち、そして今回は、岐阜や愛知に所縁の深い、東洋のシンドラーと言われた『杉原千畝』を取り上げます。詳細は折々アップしていきますが、どうぞお楽しみに。

 

皆さま、来てね。

 


私のペット履歴

6/17(日)は、BFRP東海の特別講座、アニマルプラクティショナーの佐藤真奈美先生をお招きして、愛犬に寄り添うくらし~について、たっぷりお話を伺いました。

 

人間と犬という異種間であっても、家族として暮しを共にするには、どんな努力が必要なのでしょう。動物行動学的アプローチとはまた別の理解の仕方とは、いったいどんなことでしょう。

 

バッチフラワーを使うとき、対話に基いてレメディを選ぶのは、プラクティショナーなら誰でも知っている基本中のキですが、佐藤先生のアプローチは、人と人との間で交わされる対話と同様、人と動物のあいだにも、対話が成立するという地平に立っています。つまりペットも、様々な要因から、不安や怒り、不安定さ等々に陥るとき、そこには必ず意味があり、それが人間にとって問題行動と映ったとしても、まずしっかりとその声を聞き、そして受けとめ、説明すると言ったプロセスを重要視するということです。これはペットに限らず、子育てにも通じる、コミュニケーションの極意なのではないでしょうか。

   *   *   *

 

それにしても、私が小さかった頃(1950年代)と比べると、現代のペット事情は隔世の感があります。当時、犬猫は買うものではなく、貰うとか拾うというのが主流でした。どこの家でも犬たちは、あまり快適ではないところに一日繋がれて、冷ご飯に残り物の味噌汁をぶっかけ、みたいな食事をもらっていたと思います。野良犬も普通にいました。敗戦後、社会は落ち着いたとはいえ、それでも、多くの人々にとって、食べるものに事欠いた記憶は、さほど遠いものではなかったはずです。犬猫はペットというより、番犬、ネズミ捕り、みたいな感じで、家畜に近かったのかもしれません。

 

いつ頃から犬猫はペットになったのでしょう。

確実に言えるのは、以前はもっと短命だった犬や猫が

ペットになってからは長生きになったことです。

 

私は小さい頃、特に犬が好きでした。どこの犬でもすぐに触ろうとして、咬まれたことも二度三度。それでも動物に対する恐怖心に繋がっていないのは、ちょっと面白いと思います。なぜかなあ。そんなことをつらつら考えているうちに、自分のペット履歴を辿ってみようと思い立ちました。

 

 

第1七年期 幼児期

物心ついたときには、猫がいたような...。名前も種類も何も覚えていません。気配のみ。

 

第2七年期前半 犬 雌 雑種 ユリ 外飼い

はっきりと覚えているのは、名古屋の親戚から紀州犬の雑種をもらってきたこと。冬の初め、子犬は父のコートのポケットにすっぽりと納まって、電車に乗って伊勢までやってきました。私は父にくっついて座り、横からポケットに手を突っ込んでは、子犬の感触を楽しみました。どんなに心が弾んだことでしょう。誰が名付けたか、「ユリ」という名前でした。

 

お産もしました。部屋を暗くして段ボールに布を敷いて、、、子犬たちはどうしたのでしょう?全く記憶がありません。知らない間に親がよそへやってしまったのでしょうか。やがてユリはアカラスという皮膚病になりました。赤くなった皮膚を母が洗っては、薬を塗っていたのを覚えています。いつ死んでしまったか、その時私はどうしていたか、全然覚えていません。

 

第2七年期後半 後半 犬 雌 雑種 ジュリ 外飼い

そのあとにやってきたのは、これまた雑種の「ジュリ」でした。ユリも白い犬でしたが、ジュリも白い中型件でした。可愛かったけどやんちゃでよく逃げ出すので、泣きながら探しに走り回りました。ユリに比べると、ジュリはかなりのアンポンタンでした。

 

ある冬の朝のことです。近所のチカちゃんと学校へ向かって歩いていると、いつの間にか逃げ出してきたジュリが、私のあとをついてくるではありませんか。学校までは1時間ほどかかる距離、もうすぐ学校につくというところでしたから、連れて戻ることもできません。「ジュリ、家へお帰り」そういって背を向けて歩き出すと、後ろでなにやら物音がしました。振り返ると、ジュリが「肥溜め」に落ちていました。今ならありえないのですが、当時の農村の風景としては、ごく当たり前に、畑のあちこちに、小さなお風呂ぐらいの「肥溜め」が蓋もされずにあったのです。寒い時期のことですから、表面は固く凍っていたのでしょう。どうやらジュリはその強烈な臭いを発するものに引き寄せられ、上を歩いたようで、中ほどの柔らかいところに来て、ズブズブと嵌り込んでしまったのです。助けるのは、私しかいません。大急ぎで大きな木切れを拾って差し出すと、うまくしがみついて、何とか助け上げることができました。

 

ああっ、プルプルしちゃダメ~~と叫んでも、無駄です。

うううぅぅぅぅ・・・くさ~~い!!(涙)

 

必死にすがりつこうとするジュリを振り切って逃げる私

校庭中を駆け回り、挙句の果てに校長室に逃げ込んだ私は、ジュリに負けず劣らず大バカ者でした。

 

あとはご想像にお任せします。

 

 

第3七年期 十代後半の頃になると、我が家から動物の気配が消えていました。今、思えば、両親は私たち子どものために犬を飼ってくれていたのかもしれません。姉は大学で家を離れ、私は思春期真っ只中、自分のことだけで、精一杯でした。

 

第4七年期 鳥 コキボウシ(インコ)雄

外国航路に乗っていた叔父の家で、キボウシという大型のインコを見て、どうしても欲しくなり、次の航路で通るときにと、おねだりをしました。半年くらい経って、キボウシよりちょっと小型、体長25センチくらいのコキボウシが届きました。

 

全身が鮮やかな緑色の羽で覆われ、肩と頭の上がちょっと黄色くて、おしゃべりが大得意でした。名前は「ワイワイ」と名付けました。私が家にいると、ケージから出たがり、「ワ~イ、ワイ」と呼びかけます。電話のベルが鳴れば、いち早く、モシモシとご挨拶。結構長文もしゃべりました。私の肩の上が定位置で、くちばしで布を挟みながらよじ登ります。左肩から右肩へ行ったり来たり、私はジャングルジムか、という感じでした。おかげで私のTシャツはいつも穴だらけ、膝の上でひっくり返り、お腹を撫でてもらうのも好きでしたから、とてもよくなついていたのだと思います。

 

私が結婚して家を出た後、たまに実家に帰っても、もう以前のように、甘えたりしなくなっていきました。私は裏切り者だったのかもしれません。

 

画像はコンパニオンバード.コムのサイトで見つけて勝手にお借りしてきました。

https://コンパニオンバード.com/ この子、ワイワイにそっくりで、びっくりしました

 

第5七年期 犬 ポインター 雄 外飼い

子どもたちが3歳と1歳になった時、私たち家族はそれまでのマンション暮らしから、大地の上に引っ越しました。引っ越しの翌朝、玄関まで段ボールの山に埋もれているところに、やってきたのがイングリッシュポインターの雄「ビンゴ」でした。血統書付きの犬を飼ったのは、後にも先にもこの一度きりです。正直、このタイミングは最悪でした。ちょっと待って、と言ったのですが、こちらの都合は全く無視されてしまいました。ごめんね、ビンゴ、と今も悔いが残ります。

 

家の中はてんやわんや、子どもたちは小さくて、散歩に同行もできません。あっという間に1か月が過ぎ、2か月が過ぎ、社会性やしつけをする大事な時を逃しました。あるとき、林を夢中で駆けまわっている彼の姿を見て、その美しさにほれぼれしつつ、いたく反省。折よく警察犬のトレーナーの方と知り合い、それからは十分運動はさせてもらえるようになりました。ずっと後になって、ドラマ、ダウントンアビーの狩猟のシーンでは、何匹ものポインターが馬と一緒に野原を駆けまわる姿が出てきます。それを見るにつけ、そう、こんなふうに飼ってほしかったよね~と今も胸が痛みます。

 

第6七年期 犬 雑種 雌 外飼い  猫 亀 鳥

息子が小学校1年生になった時、同級生の親御さんから、犬を拾ったけどもらってくれないか、という話が飛び込んできました。すでに持て余し気味のビンゴがいましたから、無理無理、と断りたかったのですが、子どもたち3人の必死キラキラ瞳に負けて引き受けたのが、私にとっての最後の犬、「ミミ」です。名付け親は長女。冒頭の画像の茶色の雑種です。

 

それからしばらくすると、掃き出し窓の外に、毎日猫がやってくるようになりました。どこかの飼猫らしく、おびえた様子も威嚇するようなこともありません。ある日ドアを開けて話しかけると、スッと家に入ってきました。抱き上げて聞きました。「あなた、どこの子?名前はなあに?」、ふいにゴジャという声が聞こえてきたので、その子は「ゴジャラ」という名前になり、ゴジャラは毎日、息子のベッドで眠るようになりました。

 

また、近くの牧野が池公園では、甲羅がまだぷよぷよの亀を見つけ、うちの亀にしたり、ご近所からセキセイインコをいただいたり、木の上から落ちてきたヒヨドリの赤ちゃんをしばらく育てたり、30代後半から40代は、子どもたちの成長に動物たちも入り混じって、賑やかで華やかな一時代でした。

 

第7七年期~第8七年期  犬 猫 亀

ビンゴは8歳で亡くなり、取り残されたミミはとてもしょんぼりしていました。その頃、夫は入退院を繰り返し、私は付き添いで不在がち、末娘が一人で留守番をすることが増えました。一人では淋しいので、ミミは娘のナニー犬(?)としてめでたく室内犬に昇格。いざ間近で暮らしてみると、ミミの賢いことは驚くばかりでした。芸をするわけではないのですが、こちらの言うことがとてもよくわかるのです。興味深いのは、家族という群れの中で、ミミは下から2番目という位置取りでした。夫は入院中で不在、長女もイギリスにいて普段は家にいませんし、息子の関心はもっぱらゴジャラでしたから問題外、ミミにとって私はヘッド、末娘は面倒を見てやらねばならない存在、というわけで、私~ミミ~末娘という図式でした。

 

夫を見送り、実家の遠隔介護が始まると、いやがおうにも私は不在がちになりました。その頃には、ミミが大事にしていた(?)末娘もイギリスに行ってしまいましたし、息子も大学生になり、以前の私と同じ、自分のことで精いっぱいです。ゴジャラは相変わらず息子と寝ていましたけれど、ミミはどんどん老いていきました。母が逝く2か月前、ミミは末娘の帰国を待って、彼女の腕の中で息を引き取りました。

 

そしてそれから3年後、父が逝く5日前に、ゴジャラがこの世を去りました。私は伊勢におり、ゴジャラの最後の世話は息子がしました。不思議なほど、ペットと家族は強く結ばれていました。

 

疲れて帰宅すると、息をする動物がそばにいることの温かさは、何ものにも代えがたいものです。ですが、家族の不在は彼らにとっては甚だ辛いもののように思えて、それ以来、もう私のペットは終わり、と決めました。おわり

 

アントロで読む「なんじ自身を癒せ」第5章

第1章 第2章   第3章 第4章

 

小学生の頃、年の離れた姉から、何をだったかよく覚えていないのですけれど、好きなのを選べと言われて、どう答えたらいいのか困ったことを覚えています。それは、どう答えたとしても、馬鹿にされたり、否定されたりすることが分かっていたからです。姉から見れば、軽いいたずら、単なるからかいだったかもしれませんが、子どもの世界はかなり残酷です。私は家の中で委縮していた分、その反動で学校では自己主張の強い、アンバランスな子どもだったと我が身を振り返ります。後になってみれば、これも私が持つ課題のひとつだったのですけれど。

 

第5章は、そのように周辺からの影響を受けて判断が曇る人にとって、本当に大切なこと、守らねばならないことを、やや強い調子で語りかけます。

 

 

なんじ自身を癒せ エドワード・バッチ著(バッチホリスティック研究会刊)

 第5章  

「真の個性の欠如(つまり、人格への干渉を許し、その干渉によって「ハイヤーセルフ」の命令に従うのが妨げられる状態)は、病気を作り出すのにとても重要な役割を果たしますが、しばしば幼児期から始まります。ですから今度は、親と子、学校教師と生徒との間の正しい関係を見てみましょう。」

 

興味深い書き出しで始まる第5章は、おそらくバッチ博士自身の実感を伴っているのではないか、とさえ思わせる具体的な内容を持っています。私自身もそうでしたが、幼児期から幼い人格は周りからの干渉を受ける、というわけです。バッチ自身も自分の幼少期を振り返ったら、そうだったのかもしれません。

 

親は子どもを物理的に地上に誕生させる仲立ちであり、ある時期までその若い人格の養育を担う役割を持ち、その魂が、自分で自分の若い人格の面倒をみられるようになるまで、優しい愛と保護と導きを与えること、というのはそうありたいと思いますが、決して見返りを求めず、ただただ与え、邪魔をしてはならない、と言われて、確かにそうだとわかっても、ついつい親のエゴが顔を出し果たしてどこまでできるかは疑問です。

 

私は第5章を読むと、いつも思い浮かぶ詩があります。

カリール・ジブランの『預言者』の中の一節、「こどもについて」

 

あなたの子は、あなたの子ではありません。

彼らは生命が、自らを待ち焦がれて生み出した息子、娘たちなのです。

あなたを通って生まれてきたけれど

あなたが生み出したのではありません。

あなたと共にいますが、あなたのものではありません。

 

子どもに愛を与えることがあっても、あなたの考えをおしつけてはなりません。

子どもには子どもの考えがあるからです。

あなたは子どもの肉体を宿すかもしれませんが

子どもの魂を宿すわけではありません。

子どもの魂が宿っているのは明日の家、

あなたが夢の中でも訪れることのできない場所だからです。

あなたが子どものようになろうと努力することもあるでしょうが

子どもをあなたの思うようにしてはなりません。

なぜなら、生命は遡ることも、留まることもないからです。

 

あなたは弓であり、あなたの子どもは、そこから放たれる命ある矢。

射手は無窮の道の彼方にある的を見ながら

あなたを力強く引きしぼるのです。

その矢が速く遠く飛んでいくために。

あの射手に引きしぼられることを喜びとしなさい。

なぜなら射手は、飛んでいく矢を愛しているだけではなく

留まっている弓をも愛しているのですから。

 

親の立場に立つと、いつも試される気がします。子どもの成長の過程で、様々に夢を描くからです。子どもが矢だとしたら、ともすると親は自分が射手になってしまい、自分という弓を自分自身で引きしぼろうとするのです。どの方向に向けて矢を放とうとするのか。例えば、自分が他者に干渉をされて育ったら、それが正しいかどうかではなく、あえてそうではない方向へ向けて、矢を放とうとするかもしれませんし、これくらい飛んで当たり前とか、これくらいは飛んでほしいと望むかもしれません。

 

「私たちは強欲の奴隷になりさがって、他人を自分の持ち物のように動かしたいという願望に駆り立てられることを拒否しなければなりません。私たちは与える技術を自分の中で奨励し、それを発達させ、その犠牲で、それに反する行動が跡形もなく洗い流されるところまで行かなければなりません。」

 

これは親だけでなく。学校の教師に対しても言えることだと、バッチは述べています。そして子どもの側から言うと、親の使命は神聖なものであっても、子どもの発達を制限したり、子どもが進もうとする道~魂の命じる~生活や仕事を邪魔する存在ではないこと、義務として押し付けるような存在ではない、ということをしっかりと意識する必要があるというのです。ほとんどあらゆる家庭で、完全に誤った動機と、親子関係の間違った認識から、両親と子どもたちは自分で自分の牢獄をつくっています

 

これは本当に恐ろしいことです。自分の考えだと思っていたら親の考えだったり、自分の感情だと思っていたら、実は親の感情だった、なんてことは、よくあることです。私は誰の人生を生きているのでしょうか、という問いにぶつかって、はじめて自分を閉じこめていたのは自分だったということに気づく人も少なくありません。

 

下の図は、彼の人生をバイオグラフィーワークの七年周期の考え方に沿って描いたものです。19世紀の終わり、産業革命発祥の地であったバーミンガム近郊、鋳物工場を営むウェールズ人の家庭の長男として誕生したバッチは、自然を愛し、感受性の強い子どもで、幼いころから、癒し手になりたいという願望があったようです。医療者への道は、魂の命令として彼の心をとらえ続けていました。けれど、実際はどうだったでしょうか。この時代、おそらく、家業を継ぐことは当然の成り行きだったかもしれません。16歳で学校を卒業したのち、しばらく親の工場で働いています。大学へ行く資金を出して欲しいと父親に言えなかった、という記述が残されています。それから4年後、やっとバッチは父親に医者になりたい夢を伝えます。そしてめでたく医療の道へ進みますが、彼がまっすぐに自分の夢に進むことができなかったことだけは確かなようです。けれど工場労働者とともに過ごした期間は、のちにバッチが医師になった際、彼らの経済的、身体的不安、自然と切り離されることによる苦しみなど、他者理解につながる意味深い経験となったのは言うまでもありません。人生の経験に、無駄というものは何もないということなのかもしれませんね。


からまつの林を過ぎて

北原白秋の詩、「落葉松」をはじめて知ったのは多分小学4、5年生の頃、5歳年上の姉が口ずさんでいたのを聞いたときだったと思います。思春期と呼ぶにはまだ幼い心にも、この詩が持つ寂寥感が迫って、漠然と、大人になるということは決してバラ色だけではないんだなと思ったものです。落葉松ってどんな木なんだろう。普通、松は常緑だけど落葉するのかな…。その後、40年も経ってから、晩秋の上高地で、この詩のイメージそのままの風景に出会いました。そしてその数年後、バッチフラワーのレメディの中に、西洋落葉松(ラーチ)があることを知ります。ある夏、イギリス湖水地方の河畔を歩いていた時、ふと指が明るい緑色をしたやさしい感触の枝に触れました。これは!?と思い、木の名前を尋ねるとラーチという答えが返ってきました。その時、初めてバッチフラワーの「ラーチ」と北原白秋の「落葉松」が結びつきました。

 

バッチフラワーのラーチは、「失意と絶望」に分類されているレメディで、自分が人より劣っていると感じ、自分の能力に自信が持てない時や、失敗を恐れるあまり、チャレンジを諦めてしまうような場合に使います。常緑がほとんどの針葉樹の中にあって、ラーチは冬(困難)が来る前に、さっさと諦めて葉を落としてしまう、というクオリティは、まさにラーチ、自信の欠如を表しているようで興味深いです。

 

白秋が「落葉松」の構想を得たのは、大正10年軽井沢、初夏の星野温泉に滞在中、朝夕の散策時に、からまつの芽吹きに感銘を受けたと聞きます。けれど詩を読んで浮かんでくる風景は、芽吹き時というよりは、むしろ晩秋、諦念のイメージです。もちろん人によって感じ方は違うでしょうけれど。ただ、侘び寂びというか、色味の少ない渋めな七節目までと比べて、最後の八節に、静かな芽吹きを感じるのは私だけかしら。

 

世の中よ、あはれなりけり。

常なけどうれしかりけり。

山川に山がはの音、

からまつにからまつのかぜ。

 

芽吹きというものは、うれしいけど泣きたいみたいな切なさがあります。ラーチの芽吹きは、そんな中でも特別です。特に雌花の仄赤さに、こころ揺すぶられない人はいないでしょう。傷つきやすい繊細なラーチは、失敗することで自信を失い、それによって挑戦や冒険から遠ざかろうとしますが、白秋はこの作品を書いたとき、ちょうど第2ムーンノード(37歳前後)を迎えていました。ムーンノードには、多くの人が人生の目的や意味を問い、方向転換などを余儀なくされます。当時、すでに白秋は一定の評価を得ていたと思われますが、「落葉松」は白秋のその後の詩作に向け、重要な位置を占める作品となったようです。「山川に山がはの音/からまつにからまつのかぜ」 吾唯知足~向上心とか、よりよくなろうとか、評価されたいとか、何かを成したいという意識は、決して悪いことではありませんが、自分のその時の限界を受容できる人こそが、限界を広げていく、超えていける可能性を持っていると思わずにおれません。ちなみに白秋は57歳(第3ムーンノード前後)でこの世を去っています。バイオグラフィーワーカーの視点で見ると、これもまた興味深いです。

落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ。

北原白秋「落葉松」前文

『水墨集』アルス発行(大正12年)

落葉松   

           北原白秋

   一

からまつの林を過ぎて

からまつをしみじみと見き。

からまつはさびしかりけり。

たびゆくはさびしかりけり。

 

   二

からまつの林を出でて、

からまつの林に入りぬ。

からまつの林に入りて、

また細く道はつづけり。

 

   三

からまつの林の奥も

わが通る道はありけり。

霧雨のかかる道なり。

山風のかよふ道なり。

 

   四

からまつの林の道は

われのみか、ひともかよひぬ。

ほそぼそと通ふ道なり。

さびさびといそぐ道なり。

 

   五

からまつの林を過ぎて、

ゆゑえしらず歩みひそめつ。

からまつはさびしかりけり、

からまつとささやきにけり。

 

   六

からまつの林を出でて、

浅間嶺にけぶり立つ見つ。

浅間嶺にけぶり立つ見つ。

からまつのまたそのうへに。

 

   七

からまつの林の雨は

さびしけどいよよしづけし。

かんこ鳥鳴けるのみなる。

からまつの濡るるのみなる。

 

   八

世の中よ、あはれなりけり。

常なけどうれしかりけり。

山川に山がはの音、

からまつにからまつのかぜ。

 

『日本現代詩体系 第四巻』河出書房(昭和25年)

 


イギリス湖水地方で、初めてラーチに出会った河畔


ホテルハイジ 蓼科ふたたび

晩秋のホテルハイジ
広い庭の隅にある可愛いキャビン
ホテルハイジのディナー、オードブル

自家製スモークサーモンのムース、信濃雪鱒、大王イワナ、ウイキョウのババロア

不思議なことがあるものです。

 

秋のクロイツニュースに、奥蓼科の御射鹿池に行ったと書いたことから、古い友人夫妻からなかば強引に(笑)誘われ、それにまんまと乗っかって再び来てしまいました。しかも10年前、彼女と一緒に泊まったホテルハイジに。

 

10年ぶりの蓼科が、なぜ1か月に2回も!?

 

ホテルハイジは旧皇族、伯爵家の東伏見家の別荘を当主が1975年にホテルとして開放。当時日本はバブルがはじける前、一億総中流意識にみんなが浮かれてた?そう、夢を見ていた時代だったかもしれませんが、それでもホテルハイジの格調の高さは別格でした。皇族方をはじめとして、海外のVIPも宿泊されるようで…。小さい子たちを抱えた身では、ティータイムを楽しむのが関の山。庭に点在する可愛い小屋は子どもたちの格好の遊び場でした。今も変わらずきれいに手入れをされていました。懐かしい~

 

ハイジにはシングルはないので、一番小さなツインを選びましたが、その部屋はチロル家具で統一されている可愛い部屋です。10年前に泊った時は出窓の下にベンチのついた奥行きのある部屋でしたが、今回、一人で泊まるにはこじんまりとしてちょうどいい。木立に囲まれた露天風呂で一息ついてフレンチを堪能した後はおしゃべりに花が咲き、瞬く間に夜は更けていきました。


 

翌朝早く目が覚めたので、15分ほど下ったところにある蓼科湖まで朝の散歩に出かけました。雲海の向こうに南アルプスの峰々がのぞき、まばゆい日の光が木々の彩りをさらに鮮やかに照らします。気温は1度、吐く息も凍りそう。湖面には朝もやが立ち込めています。この幻想的な風景が見られたのも早朝だからこそでしょう。逆光の中に紅葉が浮かび上がります。


 

蓼科湖がこんなに美しいのだから、あの御射鹿池もさぞやと期待に胸は膨らみつつ、車を走らせます。(運転は私ではありませんが)

ところが、観光バスが何台もいて、人の多さにびっくり。肝心の池は先週末の台風のせいか、静謐さのかけらもありません。時を経ず2度来たからこそわかる、その違い。すべてに通じる「時」があるということを。


御射鹿池から、カラマツ林を抜けて横谷観音へ。10年前、友人とこの場所に来た時、大滝神社という古びた神社にお参りをしました。黒曜石の祠に続く急勾配の参道は階段もなく何度も滑りそうになりましたが、けれどその参道の両側に広がる林から、風が吹くたびにカラマツの葉が、サラサラと音をたてて、黄金の雨のように降り注ぐのです。友人と私はその音に聴き入りました。あの瞬間、あの世とこの世は一つになり、夢を見ているようでした。

 

ところが、ここでも期待は裏切られます。今ではすっかり整備され鳥居も立派になり、参道にはちゃんと階段もできています。随分、雰囲気変っちゃったね。

 

階段を数段上がってすぐに何やら異臭がすることに気付きました。これって何? どうやら枕木の防腐剤の臭いのようです。う~~たまらん、仕方がないとは言え、すごすごと階段を下りる私たちでした。

 

さぁて、「時」を学んだ私の蓼科行き

二度あることは三度ある? かも。


横谷観音の展望台から臨む風景


バッチ博士が住んだ家

アガサ・クリスティの終の棲家、ウォリングフォードのウィンターブルックハウス 

かなりのミーハーを自認している私ですが、まさしくその通りです。住所を辿って訪ねたのは、1917年、バッチ博士31歳、ロンドン、ユニバーシティカレッジ病院で激務に追われていた頃の住まい Canonbury Square 42

 

当時のままかどうかは分かりませんが、目の前は小さな公園、木立の向こうに見える黒い扉がバッチのかつての住まい。扉の番号を確かめて公園からパチリ。

 

今からちょうど100年前、この家からバッチ博士は病院に通っていたことになります。1917年といえば、最初の妻、グィンドリンが亡くなり、バッチ博士は間もなくキティ・ライトと再婚します。

 

メゾニックホール内部

アガサ・クリスティの終の棲家、ウォリングフォードのウィンターブルックハウス 

再婚後、居を移したのはこちら。瀟洒な住宅街、89 Calabria Rd です。前の家と同様、イズリントン地区ではありますけれど、半マイルほど北にあたり、病院から遠くなります。

 

バッチ博士、忙しいのに遠くなって大丈夫?

この転居から2か月後、バッチは生死をさまようことになるのですが...。

 

こちらも黒い扉、左側の家です。家を見ていると中から人が出てきました。慌てて何気ない素振りをする自分が可笑しい。

 

同じ並びの、数件離れた家では改築の真っ最中。外観は全く変わらず、中身だけごっそり取りかえです。日本では家の寿命は短く、同じ土地に住んでいても新築~つまり人は変わらず、家が変わりますが、ここイギリスでは、家は変わらず人が入れ代わるというわけです。とても美しい住宅街ですが、これらの建物はすべて100年以上前からあったということですものね。

 

念願のバッチ博士のロンドンの家も制覇(?)しました。2017年の夏、バッチ三昧の旅もそろそろ終わりです。

バッチ博士がキティと住んでいた家
カラブリア通り イズリントン


アガサ・クリスティの終の家

アガサ・クリスティの終の棲家、ウォリングフォードのウィンターブルックハウス 

聖書とシェークスピアの次に、世界中で愛読されているといわれる、ミステリーの女王アガサ・クリスティが、85歳の生涯を閉じたのは、ウォリングフォードの中心部から少しはずれたところにある、ウィンターブルック・ハウスでした。引っ越し大好き、数多くの家を同時に所有したクリスティですが、この家につけられたブループラークには、はっきりと「lived here1934-76」と記されています。

メゾニックホール内部

ウォリングフォードの町のサイトには、アガサ・クリスティが、町の名士みたいな感じで、誇らしく紹介されています。素敵なサイトだから見てみてね。バッチ博士も、ノラ・ウィークスと、この町にしばらく住んでいたようです。ノラが、とことこ隣村のソットウェルまで散歩に行って、その後、移り住むことになるマウントバーノンを見つけたのだとか。ノラさん、かなりの健脚ですね~

 

https://www.wallingford.co.uk/home

サイト内のVsterをクリックすると、アガサ・クリスティのページがあり、そこをまた入っていったら、なんと只今、9月8日から10日まで「アガサ・クリスティ ウィークエンド2017」を開催中とのこと。そう聞いても、行けないけど。

ウィンターブルック・ハウスで寛ぐアガサ・クリスティとマックス・マローワン 

かの有名な失踪事件の2年後、クリスティは14歳年下の考古学者マックス・マローワンと出会い再婚します。その後、ウォリングフォードに家を買ったのは、ロンドンにも出やすく、マックスがオックスフォードに通うにも便利、レディングまで出れば、ダートマスのグリーンウェイ・ハウスにも行きやすかったということだったのでしょう。それにしても、アガサ、あなたはもうこんなおばあちゃんだったのね



バッチとフリーメイソン

エドワード・バッチ博士がフラワーレメディのシステムを完成させた翌年の1936年、ウォリングフォードのメゾニックホールで催したフラワーレメディについての一般講演の記録が残っています。

 

私がまだBIEPの受講生だったころ、バッチ博士がフリーメイソンだったことを知って、少し驚きました。というのも、フリーメイソンって、なんだか怪しい秘密結社であるかのような印象があるでしょう。

 

でも、かのゲーテやシラー、モーツァルトやハイドンなど、名だたる芸術家をはじめ、米国歴代大統領など多くの著名人もメンバーだったことは知られていますし、ボーイスカウトとのつながりなどからは、健全な慈善団体という印象も受けます。

 

そもそも、中世から存在するフリーメイソンは「自由な石工」を意味し、大聖堂や城壁を設計、建築する人々の集まり、石工の職人組合だったことに端を発するといわれています。(諸説あり)それが、年月を経るうちに、王侯貴族や知識人が参加するようになり、中・上流階級のクラブ、社交の場、精神修行の場、友愛組織へと変化していったようです。

 

フリーメイソンの基本理念は、自由、平等、友愛、寛容、人道の5つ、「すべての人が同意することのできる宗教」に従って「真実で善良な人間」になることが求められている(吉村正和『フリーメイソン』講談社現代新書)と書かれています。 

フリーメイソン メゾニックホール

ウォリングフォード、メゾニックホール入口

メゾニックホール内部

ホール内部


 

バッチ博士がフリーメイソンに入会したのは1918年、第一次世界大戦も終わりに近づいた32歳の時でした。その前年、彼は大きな試練に見舞われます。妻の死、再婚、そして病に倒れ手術、余命3カ月と宣告を受けます。ところが、人生の仕事に邁進するうちに不死鳥の如く甦り健康を取り戻していきます。そうした経験とフリーメイソン入会とは、何か関係があるのでしょうか。

 

一人の人間として、バッチが抱えていた葛藤なども含め、バッチ博士の著書『汝自身を癒せ』の中に描かれている世界観や健康観を貫いている、古代と近代、神秘と科学、見えない世界と見える世界をつなぐホリスティックな視点が、バッチ博士の人生を辿るうちに、さらに浮かび上がってくるようです。

 

講演をしたのは、儀式をするホールではなく、おそらくこちらでしょう、と案内してくれたのが、右のホールです。舞台の青い幕を開けるとフリーメイソンのコンパスとマークが大きく描かれていました。しかも、このホールではバッチ博士ばかりか、この近所に住んでいたアガサ・クリスティが、作品の上演をしたのだとか。5分も歩けば家があるよ、という言葉に大興奮→クリスティの家

 

今も昔も、こういったホールは人が集まる場所。フリーメイソンのセンターが今やバランスボールのエクササイズの会場だなんて。

ウォリングフォード メゾニックセンター外観

ブラームスはお好き?

私が初めてブラームスという名前を知ったのは、多分、母が歌う子守歌からだったと思う。当時にしては珍しく西洋音楽好きだった母は、毎夜、子守歌を歌ってくれたが、それが日本の子守歌ではなく、シューベルト、ブラームス、モーツァルトなどなどだった。私はモーツァルトの子守歌の、♪~月は窓から~銀のひかりを~そそぐこの夜~♪、というところが特に好きで、しつこくリクエストをしたものだ。

 

1954年、フランス実存主義の影響を色濃く持つフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」が、弱冠18歳の若さで世界的なベストセラーとなった。その5年後に書かれたのが、「ブラームスはお好き?」だった。中学生になっていた私は、なぜ、モーツァルトではなく、ブラームスなのだろう、と思いながら、むさぼるように読んだ。

 

それから何年経っただろう。1977年の春、サンフランシスコのオペラハウスで、アシュケナージ指揮のブラームスを聴く機会があった。ワクワクしていたのも束の間、演奏が始まると間もなく気分が悪くなり、もう聴くどころではなかった。ブラームスを聴く時は事前の食事をしてはいけない。気をつけようと思った。それにしても、もったいないことをしたものだ。

 

木曜日、豊田あげつまクリニックのホール、ノバリウムで、県芸の教授陣による「ブラームス室内楽の夕べ」のコンサートがあった。デュメイのCDを聴いて好きになった、ヴァイオリンソナタ第1番と、あまり知らないピアノ四重奏曲第2番だ。渋い...なんてカッコいいプログラムだろう。そうそうたる演奏者たちの奏でる響き、円熟、重厚、軽妙洒脱~教授、准教授ともなれば、後進の指導が大きな仕事であろう彼らが、表現者だけで生きていただろう若かった頃とは、おそらく違う世界を見せてくれている、なんて贅沢な至福の時間だろう。。。

参りました。

 

ブラームスはお好き?

もし、特別にお好きじゃなくても、

ぜひどうぞ。

 

ブラームス室内楽全曲演奏プロジェクト

2017/5/23(火)18:45

ザ・コンサートホール 名古屋伏見

フランソワーズ・サガン(1935-2004)

富裕な家庭の第3子(末子)としてフランスに生まれる。18歳のデビュー作で世界的名声とともに巨額の富を得る。莫大な収入を得たものの浪費も激しく、 酒、たばこの他、自動車事故で重症を負った時の痛み止めのモルヒネから麻薬中毒となり逮捕されたこともある。

 

ユーミンの「セシルの休日」に出てくるセシルは、サガンの「悲しみよこんにちは」に出てくる主人公の女の子、ということを知ったのは、ずいぶん後の話しです。


エドワード・バッチの人生

 

BFRP東海主催の木曜会では、バッチフラワーの「七つのカテゴリー」に再挑戦したわけですが、そこで改めてバッチ博士の人生を概観したことは、前のブログにも書きました。

 

ある意味、ゴシップネタも交えながら、人間バッチに迫るというのは、別段、目新しいことではなかったのですが・・・。

 

シュタイナーの七年周期の呼吸のリズムで作ったメタモルフォーゼのチャートからは、彼が50歳で亡くなったことの意味さえ、解き明かされていくのが、非常に興味深いところでした。

 

1935年、フラワーレメディのヒーリングシステムを完成させたバッチ博士は、そのレメディ発見の途上、それまで12ヒーラーと4ヘルパー(7ヘルパー)と分けてきた考え方を、完全に手放します。そしてシンプルに38種類全体を「7つのカテゴリー」に分類しました。

 

私がプラクティショナーになり、実際にレメディを選ぶ際に、バッチ博士が最終的に提示した「七つのカテゴリー」はとても役立つ、というのが実感です。感情には様々なグラデーションとバリエーションがありますから、確かに分類すること、そのものが難しいのは仕方のないことです。

 

例えばゲンチアナのレメディが示す悲観的な傾向は、感情としては落胆とか失望という言葉で表現されますが、なぜその人がすぐに、起こった出来事や自分自身を疑ってしまうのか、というところに注目すると、このレメディが「失意と絶望」に分類されず、「内心の不確かさ」に分類されていることに、なるほど!と、納得します。こうしたレメディの区分けは、バッチ自身が医療従事者として、また一人の人間として、様々に困難を抱える人々を観察することから、導き出していったと思われます。

 

30代に入ってすぐ、一度、死線をさまよったエドワード・バッチは、自らの研究に没頭することで、健康を取り戻していきます。そして、近代医学からホメオパシー、バッチフラワーの発見へと歩を進めるたびに、それまでの名誉や地位、経済的な評価を惜しげもなく手放していきます。

 

健康に生きるということはどういうことなのか。病にはどんな意味があるのか。1人ひとりの人生の課題と目的とは?人はどう生きるのか?という、誰もが一度は抱く根源的な問いに対し、バッチは自らの生き方を通して、未病、予防医学の分野を拓き、未来の医療の方向性を指し示したと思われます。

バッチセンター

19歳のエドワード・バッチ(ウェールズで)

若々しい白いシャツが目に染みる!

バッチはその血筋にウェールズの流れを汲み、

ウェールズの土地、自然から

様々な直観を受けていたようです。

クローマーの浜辺でバッチとノラウィークス

バッチ博士が愛したクローマーの浜辺で。

左端がバッチ、一人おいてノラ・ウィークス

エドワード・バッチ「オリジナルライティング」

画像は「オリジナルライティング」から

 バッチ博士が、レメディを発見した、

ウェールズ・クリックハウエル、

ノラ・ウィークスが描いたスケッチも載っています。


バッチフラワー七つのカテゴリー

 

あと数日に迫ってきたBFRP東海の木曜会

~七つのカテゴリーを紐解く~の準備に

頭のてっぺんから湯気が出そうな毎日です。

(の割には、こうしてブログを書いてます)

 

バッチフラワーの七つのカテゴリーについては

昨秋の関西で、一度テーマにしていますが

今回の参加対象が、レベル3以上ということで、

マニアック度をさらに上げています(笑)

 

今回は、新たにエドワード・バッチの人生を、七年周期に基づいてチャートを作り、あれこれ展開しています。とはいえ如何せん、人生前半期の情報が少なすぎです。もっと個人的なこと、バッチさん、教えて!

 

ただ、人生の全体図を俯瞰して、「なるほど」と思うところがあります。それは人生の呼吸が、とてもはっきりしていることです。あゝ、今は吸い込んでるとき、今は吐き出すとき、というメリハリがあり、晩年には前倒ししたかのように、後半分の呼吸をきっちり使い、メタモルフォーゼを完成しています。

 

意味、わかる?

わからないよねえ(笑)

 

調べたいことがあり、急きょ、ロンドンの娘からバッチの「オリジナルライティング」を送ってもらいました。その中に、ノラ・ウィークスが描いたウェールズ、クリックハウエルのスケッチがあります。そこにはバッチ博士が初めてレメディの植物を見つけたアスク川の橋のたもとに、はっきりとポイントが示されているのですが...昨夏訪ねた時には、残念ながらそこに植物は見つけられませんでした。スケッチに描かれている道路は変わらなくても、植物は生きやすいところへ移っていったのかもしれません。あゝリベンジしたい、ウェールズ。

 

さて、七つのカテゴリーにどこまで迫れるか。

う~む、私よ、頑張りましょう。

クリックハウエル橋
バッチセンター
バッチセンター内部 古い器具も
バッチ博士お手製のチェアにあなたも座れます

イギリス、バッチセンター 

週日は、誰でも庭や内部をみることができます。


特別な時間

「茨木のり子の人生と詩の世界~おんなのことば」を終えて

2015年11月、ちょうど1年前ですが、

あいちトリエンナーレ2016パートナーシップ事業に選ばれた、

dialog7の企画「茨木のり子の人生と詩の世界~おんなのことば」は、

名古屋での開催に続いて、2016年初夏の東海、そしてこの度の関東と、計6か所で行いました。   

 

当初はモリコロ基金を受けて、などと計画を立てていましたが

申請の相談会では、基金がなくてもできるね、と言われ、

結果は、あえなく沈没...そこでめげることもなく

さらに多くの協力を得て、無事に全行程を越えることができました。

 

ずっしりと重い、実りの時間

 

バイオグラフィーワークとポエトリーリーディングのコラボレーション

「dialog7」は、ここでひとつのピリオドです。

 

日頃、表現者として活動していない私が

茨木のり子さんだけではなく、自分自身と向き合う日々は、

振り返り、その折々の道すがらがすべて感謝の日々でした。

 

参加してくださった方々、支えてくださった方々、

皆様、本当にありがとうございました。

    

不思議なご縁で、関東最終日の会場は、たまたま茨木のり子さんの終の棲家の近くでした。

東伏見駅から南へ、下野谷遺跡公園を抜けてすぐのところ、書籍にも掲載されていた見覚えのある建物が。

住み手が居なくなって10年、表札もそのまま、紅白の山茶花が咲き、夏蜜柑がたわわに実っておりました。

 

2016初夏の東海ツアー*茨木のり子の人生と詩の世界

昨秋の「茨木のり子の人生と詩の世界」からスタートしたdialog7の企画も

いよいよ今週末の豊橋が最終ステージとなりました。

毎回、一期一会の化学変化が起こっているようです。

可児市では10代から70代まで、まさしく老若男女、様々な背景の方々が集まってくださり

人生の流れに深く頷かれる方、茨木のり子さんの詩に涙する方あり、

途中のボイスワークでも、皆さん、大きく手を振ったり、飛び上がったりと大活躍。

翌日曜日の各務原では、悩み多き子育て世代が中心。

胸打つ言葉の数々とともに、特別な時が流れていました。

 


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茨木のり子の人生と詩の世界
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やさしい子らよ

やさしいちちと

やさしいははとのあいだにうまれた

おまえたちは

やさしい子だから

おまえたちは

不幸な生をあゆむのだろう

   池井昌樹 絵本『手から、手へ』より抜粋

 

3月末、ブログに「人生にYES!」を書きながら

なんとなくすっきりしない私に

1冊の本が届きました。

 

昭和の家族写真のようでいて

どこか、「あの世」的な「永遠」を思わせる

植田正治さんの写真とともに構成された

『手から、手へ』池井昌樹さんの詩集です。

 

どんなにやさしいちちははも

おまえたちとは一緒に行けない

どこかへ

やがてはかえるのだから

 

人によっては、やさしさだけではなく

むしろ、物心つかないうちから、

たとえ、それが愛にくるまれていたとしても

「NO」ばかり、言われて育つこともあります。

そういう場合、私たちは、

自分が傷つかないよう、無意識に

見かけ上の「YES」を言って、

辻褄を合わせたりもするのです。

 

おとなになっても、

外側からの「YES」が、ほしくてたまらない。

人の顔色が気になる。

人から評価されたい。

 

でも本当に必要なのは

内側から満ちてくる「YES」なのでしょう。

 

汲めども尽きぬ泉のように

たとえ、やさしさだけを手渡されたとしても

内なるYESをつぶやくことは

まことにむずかしい。

 

でも、この詩が語る言葉のように

 

怯んではならぬ

憎んではならぬ 

悔いてはならぬ 

 

やさしさは「ちまみれのばとん

 

どんな苛酷と思える人生にも

「YES」が言える。

それを支える一筋の光

それを人は私の中の「わたし」というのではないかしら。

 

ベルト・モリゾ「ゆりかご」1874
ベルト・モリゾ「ゆりかご」1874

準備ができた?

この家に住みはじめてはや33年

庭の真ん中にある欅は2階の屋根をとっくに越えた。

見上げても届かない空の上で、今、芽吹きが始まっている。

毎日、毎日、

来る日も来る日も、私はその木を見てきたけれど、

その木も、ずっとそこに居て、

私を、家を、私の家族を見ていたのだ。

家族は、その木が大好きで

晴れた日にはその下で食事をし、子どもたちは遊んだ。

その周りで歌い、走り、落葉をかき集めて焚火もした。

 

欅は何を思っているのだろう。

 

今、ツリープロジェクトでその欅を観察している。

観察し、スケッチを重ねていると

見てきたつもりで、全然見ていなかったことに気づく。

そう、こんな風に観てはこなかったのだ。

 

スケッチブックの真っ白な一ページに

柔らかい黒鉛筆で、ていねいに欅の冬芽を描く。

どの冬芽の下にも必ず葉痕(葉の落ちた痕)がある。

つまり新しい芽は前年の葉の付け根(葉腋)に出来る。

 

スィートチェストナットやオークのように

冬芽が出てきても、なかなか葉が落ちない木もあるけど

普通、広葉樹は、

冬芽ができると安心したかのように葉が落ちる。

「準備ができたね、それでは行くよ」というように。

 

ふと思う。私達にも同じことが言えるのかも。

それに気が付いていないだけで。 

立派なハルニレの木(札幌で)
立派なハルニレの木(札幌で)

人生にYES!

先日、久しぶりに会った少女が、

とても美しくなっていて、びっくりしました。

聞けば、希望の高校に合格したとのこと。

おめでとう! 身体中から自信があふれています。

 

あぁ、そうか。

人生がわたしに、「YES」を言ってくれた時

こんなふうに輝いたものだった。

  

  少女よ、

  今のあなたには、届かないだろうけど

  人生はいつも、あなたに「YES」と

  言ってくれるとは限らない。

 

どんなことがあっても、どんなに傷ついても、

何もかも失ったとしても、無数の涙のあとで、

それでも、人生に「YES」と言える自分になる。

 

痛みや悲しみの向こうにしかない

自分だけの「YES」を

あなたが人生に対して言う

その変容の瞬間を経て

人生は真に輝き出すのだから。

 

 

Knaus 野原の少女
Knaus 野原の少女

詩人茨木のり子とふるさと西尾

 私が、詩人茨木のり子さんと出会ったのは、まだ中学生のころ。当時、母は毎月『装苑』という婦人雑誌を取っていて、巻頭ページを飾っていたのが、茨木さんの詩でした。少女の私は、毎月どんな詩が届くのかが楽しみでした。その詩から連想する詩人茨木のり子さんは、すっきりと背筋の伸びた人に思えました。いつしか人生も後半になり、バイオグラフィーワーカーになった私は、かつて中学生の頃に憧れた詩人の人生を、作品と重ねてみたくなりました。彼女が愛知県西尾市で幼少期から思春期を過ごしたということを知り、いつかは彼女が育った場所に行ってみたいものだと思い続けてきましたが、2月、その願いがかないました。

西尾市岩瀬文庫で

西尾市の岩瀬文庫で開かれた「詩人茨木のり子とふるさと西尾」展。岩瀬文庫は日本初の古書ミュージアムです。こんな素晴らしい財産が西尾市にはあるのですね。本当にびっくりしました。

静かな館内に心温まる展示。地元だからこそなのかもしれません。世田谷文学館での企画展も感動しましたが(なんせ装苑の巻頭ページが大集合でしたし)、岩瀬文庫の展示もなかなかのもの。後年「吉良のチェホフ」と詩の中で詠んだお父さんの絵もありました。優等生ののり子さん。頑張り屋ののり子さん。お嬢様ののり子さん。明るい海辺の空の下、はつらつとした姿が目に浮かびます。


1階の展示コーナーには、詩の人気投票も。

一番人気は「自分の感受性くらい」、「倚りかからず」あたりでしょうか。「私が一番きれいだったとき」、「汲む」もなかなか得点が高そうです。で、私は何に投票したかって? 甲乙つけがたいので、ちょっとマイナーな「一度視たもの」にシールをポン!!

 

休憩コーナーで、ケーブルTVの茨木さんの番組を見たあとは、お抹茶を一服。さすが、お抹茶生産日本一の西尾市です。その後、昼食をいただいたお店でも再び一服。結構なお手前でございました。

少し車を走らせて、海の見えるカフェに。

波間に鳥たちの群れ。トンビが悠々と空を舞っています。

遠くまた近く、見えるのは知多半島? それとも渥美半島?

 

ふるさとの多彩な海岸線を誇る伊勢志摩が私の海の原点。

なので愛知の海には物足りなさを感じていたのですが、

この日の海は極上でした。

おそらく茨木のり子展の余韻があったのでしょう。

青く澄んだ海もやがて日が陰りはじめると空も島影も茜を帯びて。

ふと浮かんきたのは嶋崎藤村の詩

~湧きて流るるやほ潮の そこにいざよふ海の琴 調も深しももかはの

よろずの波を呼び集め ときみち来ればうららかに 遠く聞こゆる 春の潮の音~

BFRP東海*バイオグラフィーワーク&コミュニケーション講座

BFRP東海では、2014年から毎年1月~3月までのあいだにプラクティショナーのための勉強会を開いています。

1年目にはトエルブヒーラーズ、2年目でセブンヘルパーズとこれまでバッチフラワーレメディの理解を深めてきましたが

3年目となる2016年は、よりよいコンサルテーションのできるプラクティショナーとして、

自分の表現方法にどんな癖や思い込みがあるかをバイオグラフィーワークの手法を使いながら探っていきます。

 

 

 

BFRP東海

 

バイオグラフィーワーク&コミュニケーション講座

 

 

聴く力 話す力

 

幼い頃から、私たちはどんなふうに自分の気持ちを表してきたでしょう。 

知らず知らずのうちに身についた私の表現方法は? 

それは今、私の聴き方、話し方にどんな影響を与えているのでしょうか

私たちプラクティショナーにとって、大きな意味を持つ「聴く力・話す力」 

相談者と向き合う時、平穏な中心を保ちながら、どれほど心を開いていられるか、 

いかに早く相談者との間にラポールを築けるかは、コンサルテーションの質を大きく左右します。

 

2016年、木曜会は、よりよいコンサルテーションのできるプラクティショナーを目指して 

バッチフラワーと関係づけながら、「自らを知る」ことからスタートします。 

 

参加に当たって特別な経験や技術は必要ありません。どうぞお気軽にご参加ください。 

(プログラムにはアートワークとシェアリングが含まれますが、話したくない内容を強制することは一切ありません) 

 

日 時   2016//21、2/18,3/17(第3木曜日 全3回)10:00~13:00 

会 場   岩崎公民館 会議室2 

参加費   9,000円 (一回ごと分納可) 

対 象   BFRPBIEPレベル3受講生 (満席になりました )

ファシリテーター 中村かをる(BFRP、バイオグラフィーワーカー)

お問合せ・お申込みは BFRP東海 bach38tokai@yahoo.co.jp 

 

新企画 Dialog7

みなさま、たくさんのご参加、そしてお手伝い、応援をありがとうございました。

この企画は さらに内容を深めつつ、2016年、春から夏にかけて東海各地で展開します。

新情報は「 Dialog7」 のHPでご案内。http://www.dialog7.jimdo.com お問合せは Email: dialog76127@gmail.com まで。


11月8日、雨の日曜日、

バイオグラフィーワークとポエトリーを組み合わせた

「茨木のり子の人生と詩の世界~おんなのことば」は

社会教育芸術~もとい、未来教育芸術の

新しい取り組みとして活動をはじめました。

時間という空間のなかを、吸ったり吐いたりしながら

植物のように、生長発展していく私たちの人生。

七年周期のアーキタイプを道しるべとして

茨木のり子さんの人生を紐解いていくにつれ

「飛翔することば」に結実していくプロセスの中には

受取ったものと与えていくもの、

様々な問いと答えが浮かび上がってきます。

わたしたち自身にも、反映させながら。

 

さて、あなたの人生は、いまどのあたり?

バイオグラフィーワーク
ライアー演奏と詩の朗読

軽く気持ちと身体を整えたら、いよいよ後半です。


ライアーのやさしい音色が、空間を優しく包みます。

今回のプログラムは、詩集「おんなのことば」から、

今年リリースされたCDに収録されている後半の詩を中心に、

前半の詩も幾つか朗読します。

CDのジャズピアノはカッコよくてしびれますが、

マイクを通さないライブでは、会場によって、

ちょっと強すぎるのが難点、それに比べて、

ライアーの響きはとにかく柔らかい。

Hirokoさんの声が、それを縫うようにのびやかに、また軽やかに

ある時はどっしりと、はたまたスパイシーに響き渡ります。

それにしてもHirokoさんの声って自由自在!!

そして、やはり「詩」は詩人の人生そのもの、

言葉が立体的というか、重層的に聴こえてくるのは、

何とも不思議です。


茨木のり子の人生と詩の世界

茨木のり子さんの人生と詩の世界の企画がいよいよ1週間後に迫ってきました。

 

バイオグラフィーワーカーである私にとって、

バイオグラフィー研究はとても興味深い分野です。

昨今、注目されているエンディングノートや個人史、

医療や介護の世界でのナラティブメディスンやセラピーと重なり合いながらも、

さらに未来への希望、人生の意味や目的、人間存在への尊厳などを

これほど語り掛けてくるものはないと自負しています。

それはおそらくバイオグラフィーワークが持っている

人生観や世界観へまなざしの違いではないかしら?

 

どこが? と、思われる方、ぜひお出かけください。

ご一緒できることを、楽しみにしています。

東山動植物園
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ウェブ用フライヤー
詩人茨木のり子さんの人生をバイオグラフィーワークの観点から読み解くとともに
私たちの人生に語り掛けてくる珠玉の詩の数々を、ライアーの響きと共にお贈りします。
茨木のり子2015k.pdf
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新緑の季節

5月はバイオグラフィーワークで始まりました。


アントロポゾフィーに基づく看護ゼミナールでは

豊田市、あげつまクリニックの素晴らしいホールで、

2日間、ムーンノードを中心に。

ただただ出会いに感謝です。


続いて、伊豆高原の「対話の家」に

講師プログラムのメンバーが集まりました。

このメンバーは、みんなよく知った人たちですが

それでも、最初の頃はやはりぎこちなかったのです。

ところが回を重ねていくうちに

絶対的な信頼感といったらいいのでしょうか。

ある瞬間、何かがフッと変わって

人と人の「間」が育っているという、実感がありました。

共同体形成の醍醐味は、なかなかです。


5月から、養成コースの週末フォーマットは第2モジュール、

ミラーリング、ヒポモクリオン、メタモルフォーゼなど

人生を解き明かしていく、バイオグラフィーワークの

さまざまな手法を学んでいきます。

もちろん、自分自身の人生を使って。


伊豆高原では、日がな一日ウグイスが啼いていました。

GWが明けて、名古屋へ戻ってみると

出かける時には、まだまばらだった槐の新芽が

もうすっかり青葉になっていました。


春から夏へ。いよいよ緑豊かな季節です。

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