「なんじ自身を癒せ」第1章

2009年7月にスタートしたバッチの遺産「なんじ自身を癒せ」の読書会が、87回目を迎えた今日、2017年11月10日に、11巡目の第1章を読むことになりました。当時レベル1を終えたばかり、10人足らずのメンバーで始めた読書会でしたが、メンバーが入れ代り立ち代りしながらも、やがてその中から何人ものプラクティショナーが生まれ、新たな牽引力となって、今では主催もその名の通り、BFRP(バッチ財団登録プラクティショナー)東海となりました。そのBFRP東海の背骨となっているのがこの読書会です。

 

 レベル1の授業では、エドワード・バッチが遺した2つの著作「なんじ自身を癒せ」と「12ヒーラーとその他のレメディ」を通して、その世界観に触れますが、コースが終わってもこんなふうにしつこく読むには、それなりの理由があるはずです。この小冊子のどこにそんな魅力があるのでしょう。

 

1930年、当時ロンドンで成功した医師の一人であったバッチ博士が、診療や研究を通して辿り着いたのが、古くはヒポクラテス、そしてパラケルスス、ハーネマンへと続く、ホリスティックな流れを汲む人間観でした。『なんじ自身を癒せ』の表紙を開くと、冒頭には「病気の真の原因と治癒の説明」と書かれています。今では心身のストレスが、様々な病気の引き金になったり、悪化させたりすることは、よく知られていますが、「癒しを自分で助けることができるのではないかと思い、病気の根本の原因を自分の内部に探そうと悩んでおられる方々の手引きになることが、ささやかな望みです」と書かれた文章から、時間に追われ、結果を急ぐ私たち現代人が、束の間の癒しを求めて右往左往するイメージが既にあったのかと問いたくなります。

 

発刊は85年余り以前ですが、その間も今も、医学の進歩はとどまることがありません。それによって多くの命も救われてきたことでしょう。その観点からみれば、バッチの言葉は医学的ではないかもしれません。けれど興味深いことに、バッチ博士が行きついた健康観は、古びるどころか現代のメンタルヘルス、セルフケア、セルフヘルプを先取りして、自己発見や自己認識~セルフアウェアネス~を高めていく上で、もっとも予防医学に即しているのではないかと思えます。医療の専門家ではない、ごく普通の生活者である私たち一人ひとりだからこそ、誰でもできること~つまり、自分の健康に責任を持ち、かけがえのない「私」を丁寧に生きていくことだと確信するのです。

 

11巡目に入ったことを機会に「なんじ自身を癒せ」を、これまでよりちょっとだけ真面目に読んでみようかな、というのが私の新たな試みです。お付き合いいただけたらうれしいです。

 

 なんじ自身を癒せ エドワード・バッチ著(バッチホリスティック研究会刊)

 第1章

日本には「病は気から」という古くからの言い伝えがありますが、シンプルに捉えたらバッチ博士の健康観はこれに通じるものだと思います。それは「病気の起源は物質的なものではない」と言っていることから理解できます。では気から始まったはずの病ですが、医学の世界では「病気を身体内に局限することによって......強力な病気恐怖症を生み出し、病気の力を途方もなく増大させてしまい…」とあります。たとえば、病気とまではいかなくても、ちょっとした不調や、不具合が生じると、私は猛烈に「よくなりたい!」と思います。同時にあれこれ不安や怯えすら覚え、余計調子が悪くなることもあります。まさしく気は病を促進すると言ってもいいくらいです。胸に手を当てて振り返ると、その前後にはかなり無理をしていたとか、自分をないがしろにしていた、なんてことを思い出します。だから身体と心はつながっているし、「心は騙せても、身体は正直」なんていう言葉も出てくるわけです。

 

バッチ博士は医師でしたから、人間が心身ともに健康に生きることを強く願っていました。第1章にはまず病気の本質について述べられると同時に、その大前提となるバッチの人間観についても、はっきり明記されています。それは「人間」を、見える世界としての物質的「身体」と、見えない世界における「魂」、その二つの領域をつなぐ「心」の3つに分け、「病気とは「魂」と「心」との葛藤が、身体の中に生み出した最終的な結果であり、深く長く活動してきたいろいろな力が作り出した最終産物です」と考えました。ですから私たちが健康に生きるには、「魂」と「心」が葛藤しなくてもいいようにする必要があるというわけです。それって一体どうすればいいのでしょう?

 

バッチは「心は身体よりもずっと明確に病気の兆候とその進行をよく物語る」と言っています。では「心」って何?という問いが出てきます。(下記の図を参照)心の働きを考えてみると、心もまた3つに分けることができます。まず見える世界と強く結びついているのが「意志、行為」です。そして見えない世界に通じるのが「思考」、その真ん中にあって両方をつなぐのが「感情」ですが、それらは分かちがたく結びつきながらも、ある時はどれかが優位に立ったり、またある時は眠らせてしまったりしながら、いつもいつも動いているはずです。私自身の日常でも、思考、感情、意志が全く統制されないでバラバラに動いてしまうこともありますし、義務感や評価を求めて行動する時には明らかに感情をごまかしていることがあります。いやだなあ~と思いながら、これはするべきでしょ、とか、ここで投げ出したら無責任、評価下がるよ、なんて、気持ちをなだめ、頭で身体に命令をするわけです。そして時には感情を凍らせて動かなくさせることだってやってのけたりするのです。つまり自分の感情は、自分から無視されている、今どきで言うと、セルフネグレクトってやつですね。なんとまあ、危ういことでしょう。

 

では、病気になっちゃったらどうするの?病気をどうとらえたらいいの?と言いたくなるわけですが、バッチはこう述べています。

 

「簡潔に言わせてもらえば、病気は、見たところとても残酷ですが、それ自体は有益なもので、私たちのためになります。もしそれを正しく解釈すれば、私たちは病気に導かれて、自分の非常に重要な過ちに気づくことになります。もし的確に対処すれば、病気はそうした過ちを取り去る原因になりますし、私たちを前にも増して健康にし、人間として大きく成長させてくれるでしょう。」

 

そうは言ってもね。というところでしょうか。気持ちに余裕があれば、こう考えることもできるでしょう。けれど症状に自分が苦しんでいる時、私を含めほとんどの人は困惑し混乱し、気分の悪さや不快感の中に閉ざされてしまいます。本当に病気は残酷です。だからこそ...

 

「前兆となる症状を理解し、その意味を読み取ることができる人であれば、もし適切な霊的・精神的な矯正手段を講じれば。病気は発病にいたる前に防止され、または初期段階で食い止められるかもしれません。」

 

つまり未病の状態の時から、自分の心の声に耳を澄ますレッスンが必要になるようです。食生活や生活のリズムなど実際的なことに心配りをすることはもちろんですが、バッチ流にいえば、自分の魂の命に則って生きるということが最も重要になるというわけです。でも、魂の目的ともなると、ちょっとわかりにくいし、すぐに答えは出せません。でもすごいことに身体の不調は、そういう時にこそ、導き手になってくれるということなのでしょう。こう書きながら、でもでもと、様々な問いが浮かんできます。それの答えは、第2章以降をお楽しみに、ということになるでしょうか。

 

どんな場合でも、どんな厳しい状態でも、絶望する必要はありません。なぜならその人がまだ肉体的に生きるのを許されているということは、支配している「魂」は希望を捨てていないことを示しているからです。

 

これって病気という範疇にとどまらず、すべてに言えることですね。

 

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