ポストコロナが、
私たちのこれからにどんな作用を及ぼすのか
その輪郭がはっきり姿を現すのは、きっと数年後。
(これまでも、頭では知ってはいたけれど)
ステイホームを余儀なくされて
真から見えてきたこと...
それはステイホームできない沢山の人によって
私のステイホームが可能になっていたということ。
私のイノチを守るために、図らずも
沢山の犠牲が捧げられていたこと。
それこそが
目に見えない「つながり」
一人で生きてると思っちゃいけないのだ。
バッチの読書会や研究会、植物観察会に加えてバイオグラフィーワークなどで、どんなに少なく見積もっても、月に4回くらい会っていた仲間たちと、このところすっかり会えなくなってしまった。「またね~」と明日が来ることを無邪気に信じていたなんて嘘みたい。
もちろんオンラインという手があるので、なんらかのやりとりはしているのだけれど、先日も、本当に会える時が来たら泣いちゃうかも、と言っている人がいた。それを聞いてみんな笑ったけれど、「あう」ということは、本来そういうものなのかもしれない。
だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた――
そんな気がするのだけれど
それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのか――
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて 詩集『あいたくて』大日本図書(1991)
あいたい、あう、ということの意味があえなくならないと分からない、ということがもどかしい。
にょろりとヘビも出現。
でもこのヘビも生まれたてらしく
あたらしき
木の芽の はなやかさ
さあ わたしよ
うれしいうちに ほほえもう
『逝春賦』八木重吉
毎年、芽吹きの頃、決まって思い出すこの詩。
この春ほど、この詩を切なく感じることはない。
当たり前が当たり前でないことを、知っているつもりだったけれど、実は何にもわかってなかったんだなあと自分にあきれてしまう。だってわかっていたら、してるものね。
私、ちゃんとうれしい時に、うれしい顔をしてた?
本当に大切なこと、本質的なことを、後回しにしていなかったかしら。できなくなって気づく前に、ね。
30年以上前のことだけれど、私の愛車はコロナマークⅡのワゴンだった。 当時「コロナ」はトヨタの代表格の車種だったと記憶している。
荷物がたくさん載せられて、乗り降りも楽なステーションワゴンが私は好きで、 子どもの送り迎えや買物に大活躍、10年くらい乗ったと思う。
もうすっかり、そんなこと忘れていたのに、
今やどこを見ても何を聞いてもコロナの大合唱。
世界中を恐怖や不安のパニックに陥れているコロナ、新型コロナウィルス感染症(Coronavirus Disease 2019)。
こんなことがあっていいものか。
コロナは光の環、冠
光ならぬ、恐怖や不安の環に締め付けられて、
本質を見失いそうになる。
この時代を選んで、70年の年を経てきた私がここにいるのだから、
その意味を深く捉え、注意深く勇気をもって、
今この瞬間を愛していたい。
今年最初の植物観察会で
東山植物園に行ってきました。
お目当ては何といっても咲き初めの
チェリープラムでしたが
それより早く満開を迎えている河津桜に
人もメジロも夢中で、
それを横から見ていると
なんだかちょっとおかしくて
愛おしくて。
白梅紅梅、レンギョウ、まんさく、ふくじゅそう
数日、不在にして戻ってきたら
目の前の公園の桜が満開になっていた。
まだ風の冷たい早春の朝、
その枝々に無数の蕾を見つけ
あゝ、未来は希望だと教えてくれた桜。
巡る季節と
揺るぎない美しい自然のリズム
でも今、そんなことに
心を動かされていることは
赦されないのかな。
いやいや、そんなことはないよね。
「あなたが蔓延する病への恐怖のほか何も考えられないとき、そしてそのような恐怖とともに夜、眠りにつくとき、 無意識に恐怖に満ちた想像とその残像が魂のうちに作り出される。これが病原菌にとって根付き、繁殖する 快適な温床となる。」
ルドルフ・シュタイナー 1920 年 3 月 21 日~4 月 9 日
スイス、ドルナッハで開かれた第一回医療者会議の講義より
今は 二月 たったそれだけ
あたりには もう春がきこえている
だけれども たったそれだけ
昔むかしの 約束はもうのこらない
まったく今年の2月は
こんな詩が似合わない。
寂寥も清冽も
どこにいってしまったのか。
風も凪いで
ほのぼのと明るく、
閉じたまぶたが暖かい。
梢の先には真昼の月、
カワウはのどかに羽を広げている。
膨らみ始めた桜のつぼみ
このままどうぞ咲かないで。
一度ぎゅっと縮こまり
休眠打破しようよ。
今朝、
窓を開けて空を見たら
こんな日に、
つぼみって膨らむんだな
と思った。
前夜の雨は冷たかったけれど
朝の雨は
しっとりと柔らかで
優しかった。
小枝の先を包む、
こんな暖かい雨を
つぼみはきっと好き。
ふと目を覚まし
のびのびしたくなるにちがいない。
立春を過ぎてやっと寒くなったけど
明るさとの奇妙なバランスが
いかにも2月。
新しい年が明けました。
夜ふけて窓の外、
オリオンが西に傾き
シリウスは
もの言いたげに
力強く瞬いていました。
どんな一年になるのかな。
生きる意味が
しんしんと落ちてくるような
そんな一年でありますように。
松の内が過ぎ
正月飾りも片付けると
もうすっかり日常です。
待っているのは
今週末から始まる
バイオグラフィーワーク。
2015年からスタートした
9期生がいよいよ卒業です。
皆さん、5年間
よく頑張りました。
コースに引き続き9期生は
BWジュピターの総会に参加します。
これまで東海のメンバーは少なくて、
ちょっと淋しかったけど
これで一気に東海勢が増える。
わ~い、うれしい!
明るい朝
西の空には消え残る白い月
見上げると
いつの間にか桜の木に
つぼみが膨らんでいる。
ふいに「未来」
という言葉が浮かんだ。
未来?
希望?
なぜ、つぼみが膨らんでいると
希望を感じるのかしら。
夜が明けると朝がくる。
冬のあとに春がくることを
私たちは知っているから。
死と生が巡るところに
希望が生まれてくることを
私たちはどこかで知っている。
陽が落ちると
一気に風が冷たくなりました。
凍る夜気
なんと明るい月夜でしょう。
煌々と輝く月の光に
オリオンもかすんでしまうほど。
長い夜は窓辺に寄って
星々のことばに耳を傾けます。
声にもならない
文字にもならない
私の中で、
ともしびのように
燃え続けている言葉を探しながら。
あっと言う間に待降節も3週目、
ピークを過ぎてはいるけれど
まだまだ紅葉が美しい。
暖かな12月
長く楽しんだ黄葉も
とうとうおしまい。
お花がちって
実がうれて、
その実が落ちて
葉が落ちて、
それから芽が出て
花がさく。
そうして何べん
まわったら、
この木はご用が
すむかしら。「木」金子みすゞ
一年の終りが近づくと
来た道をふりかえりつつ
明日を夢みて
いのちの巡りに、思いを馳せます。
さてさて、私のご用は
いつまで?
秋らしい日が続くようになった、
と思ったら、早くも11月。
窓を開けても閉めても
気にならない
この心地よさったら!!
ところで、エアコンでは
同じ温度に設定しているのに
冷えすぎたり、
暑くなったり、
微妙に快適でなくなるのは
なぜ?
おおらかに暮らしたいのに
いつからこんなに
快適さの幅が、狭くなっちゃったのかな。
わたしって。
これってエアコンを
新しくすればって問題じゃないよね。
庭のクリスマスホリーの実が
日に日に赤みを増してきました。
キリストの茨の冠を表す葉と
流した血を表す赤い実。
その棘に触れながら、苦悩と幸福の
相関関係を思います。
時に、なんでこんなこと思い出したんだろう、というようなことがあります。
小学校3年生の時、何の教科の時だったか忘れてしまいましたが、担任の先生(女性)がみんなに質問をされました。
「掃除をするとき、なぜ椅子を動かさないといけませんか?」
何人かが当てられ、私の番が来たとき、「小さな埃やごみを掃除するには、動かした方がよく見えるからです」と答えました。私にはそれ以外の理由は思いつかなかったからです。
先生は、なぜか勝ち誇ったような顔をして、「覗いて箒を差し込んだら取れます」と答え、「次までに考えてきてください」と言われました。
その夜、私はずっと考えましたが、どうしても、それ以外の理由が思いつかず、先生から正解を聞けることを楽しみにしていました。けれど翌日、先生はまるで忘れたかのようで、聞いても答えてもらえませんでした。
今思うと、からかわれたのでしょうか?あれからもう何十年も経つのに、釈然としない思いだけが残っています。
いつしか晩秋です。
遠くの山並みが
くっきり浮かび上がり
夕暮れの美しさはことさら。
先日、夕映えの中を、鳥が隊列になって飛んでいくのを見て、まさに1000年前の、枕草子の世界が今もあると思いました。
当時の風景は望むべくもありませんが、たとえ、物も人も、すっかり変わってしまっても、自然の巡り、感動する気持ちは、きっと、今も昔も変わらないのでしょう。
当時も「秋はゆうぐれ」だったのですね。
秋は、夕暮れ。
夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、烏の、寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。
まいて、雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言うべきにあらず。「枕草子」より
クロイツのそばの
大きなコナラが、枝いっぱいに
ドングリを実らせる季節となりました。
ある朝、
コンサルテーションをしていると
耳慣れない鳥の声。
ふと、窓の外に眼をやれば
青い翼の小鳥
コナラの枝に止まっています。
オオルリだ!!!
驚きと喜びで、心臓が止まりそう
これまで、鳥図鑑で
何度も何度も見ていますが
本物を見るのは初めて。
渡りの季節、幸福の青い鳥
来てくれて、ありがとう。
秋に誘われて、久しぶりに朝の散歩。
むせるような金木犀の香り。
池の畔では
ひと群れのクジャクソウ、
センニンソウは種をつけ、
飛ぶ宝石…カワセミが
ヒスイ色の羽を翻す。
真っ白な
クジャクソウを指に摘み
日に透かして見る
小さな太陽
逝ってしまった人に
打ちひしがれている人に
言葉を失い、
ただ立ち尽くしている人に
届きますように
花のしずく
もう夏は行ってしまったのかしら。
きっとまた戻ってくるだろうけど。
それにしても
ここ数日の心地よさ。
朝、目覚めると
思わず肩までシーツを引き寄せる。
この爽やかさは秋のもの。
いつしかツクツクボーシが主役になり
アキアカネが舞って
青いどんぐりが落ちてたり
長梅雨の挙句に猛暑
それでも1ヵ月もすると
こんなふうに秋めいてくるなんて。
日本の四季は最高です。
一点の曇りもないほど
青く澄んだ朝の空
この秋空の下
一瞬一瞬、止まることなく
どこかで
笑っている人
泣いている人
満ち足りている人
苦しんでいる人がいる
それでも
何ごともなかったかのように
今日も静かに日が暮れる。
「共苦のこころ」を意識しつつも
健やかに眠ってしまう私を
どうか赦して。
梅雨明けと同時に
立派な夏がやってきました。
庭の木に止まっている
カラスは、苦しそうに嘴を
開けています。
この照り付ける太陽の下
逃れようのない、あの漆黒!
どれほど暑いことでしょう。
この週末2日間は
横山守文さんの
オイリュトミー講座です。
たっぷり汗をかき
心も身体も夏になります。
今日も朝から、気持ちいいほどの蝉時雨
オイリュトミーでしっかり汗を流し、これで身体も夏仕様と、空を見上げれば、
あれ!?
そこはかとなく、秋の気配。
そんなバカな! つい先だって梅雨が明けたばかりだというのに。暦の上では早くも立秋、たしかに夏至の頃からみれば、日の出は20分遅くなり、日の入りは10分早まっているのですから、どんなに暑くても、おひさまが空にいる時間は、確実に短くなっていて、秋を感じる瞬間があっても不思議ではありません。
今週末は、今を盛りと鳴く蝉時雨に打たれながら、涼しい部屋に籠ります。4日間のバイオグラフィーワーカー養成9期名古屋の第7モジュールの合宿です。残すはあと2モジュール。ここまで来ました。みんなよく頑張りました。あと少し!
今夏も、庭のあちこち一杯、タカサゴユリが咲きました。
丈高く伸びた雑草に混じって、白い百合の花が風に揺れている様は
えも言えぬ美しさです。
おかげで、この時期に開くコースでは、両腕に抱えきれないほどタカサゴユリを飾ることができます。
ありがとう!
うちの庭に来てくれて。
でもこのタカサゴユリは外来種、
国立環境研究所の侵入生物データベースにしっかり入っています。
圧倒的な繁殖力に、日本原産のテッポウユリやピンクのササユリなどは押され気味。最近ではあまり見られなくなりました。植物界でも熾烈な戦いが繰り広げられているということでしょうか。
毎朝歩く道々の
同じ角、同じ草むらなのに
季節の巡りと共に、
植物が入れ変わるのが面白い。
6月末のある日。
池沿いの叢で、小さな花を見つけました。
ん? この花は・・・
ひょっとして
セントーリー(の近縁種)?
花は小さいけれど
とにかく立ち姿がそっくり。
日本で、初めて見る!
(私が、ですが)
さっそく7月初めの読書会後、
ボタキチ(ボタニカルキチガイ)と
呼ばれているメンバーが、実地調査。
めでたくハナハマセンブリと判明しました。
バッチフラワーのセントーリーは
ベニバナセンブリ
ハナハマセンブリは仲間です。
最初はほんの数株だったのに
いまでは、池沿いに、公園の道に
いっぱい咲いています。
7月が終わっていく・・・
ギュッと凝縮したような日々
充実していて
楽しいし、うれしいし
それなのに
誕生月は
なぜかバイオリズムが
ちょっと乱れる。
それにしても、
梅雨ってこんなに長かったっけ?
そう思って調べてみたら
1951年以降の東海地方で
最も遅い梅雨明けは
2009年の8月3日でした。
え~~夏が来ないうちに
夏休みが、半分終わっちゃう。
子どもの頃は、もっと夏が早かった気がする。
なまぬるい風がレースのカーテンを揺らし
部屋の隅にはご近所からいただいた
スイカがゴロゴロゴロと7,8個!
一緒にゴロゴロしていた夏休みが懐かしい。
朝の散歩を始めてからまるっと3ヵ月が過ぎました。
凍える2月から季節は初夏へ。
もうずいぶん歩いている気がするのに、
まだたった3か月か...。
それでも開始から、400キロ(東京~大阪)達成。
最初は、1ヵ月を目途に
しないよりは、したほうがいいのだから、
くらいの気持ちでした。
「絶対」なんて言葉も、強い決意もなく、
ピンときたから気楽に決めて、淡々と続ける楽しさ。
もちろん歩く目的や効果は、それなりにありますが
私が、いいなと思うのは
自分が決めて、自分が行為する、
この自分との約束を守ること。
それはなんだか、
私が私を、大事にしている気がするからです。
梅雨の晴れ間は
なんて気持ちがいいのでしょう。
夏至が近づき、日が長くなってきました。早朝から東の窓は眩い初夏の光が溢れています。
セイヨウオトギリソウ
別名セント・ジョンズ・ワート
別名ヒペリカム
この花は聖ヨハネが殉教で流した血から芽生えたという言い伝えがありますが、6/24は洗礼者ヨハネの誕生を祝う日です。ヨハネを守るために、町中の窓に挿したといわれるセントジョンズワート。冬至のクリスマスも、夏至のヨハネ祭も いづれも太陽、光、火と深いつながりを持っています。でも日本は梅雨。どう考えてもこの季節は、「焚火」じゃなく「水」でしょ、と思ってしまうのは、仕方がないですよね。
この季節
ふと蘇ってくる風景があります。
農村だった私のふるさと
田植えが終わる頃
水をたたえた水田には
一面に美しく並んだ苗が
影を落として
夕暮れ、吹く風に
さやさやと揺れている。
夕映えの
仄かな紅が青と混じり
明るさの残る空の下
その水辺の
1本の苗のように
佇んでいると
突然
私を襲ったのは
えもいえぬ幸福感
その強烈さに打たれ
ただただ
世界と溶け合っていた
思春期の頃
季節外れの、
大晦日と新年の気分を味わいつつ
GWも明けて、季節は初夏。
連休の間は、イレギュラーな仕事に
子どもたちも帰省したりで
かえって忙しい日々でしたが、
久しぶりに日常に戻って、いつものルーティーン、
いつもの道を歩いてみれば
しばらく見ていなかった間につつじが満開、
風景がすっかり華やかになっていてドキドキしました。
今週からは、バイオグラフィーワーカー養成
9期アドヴァンス後期の合宿、
12期ファウンデーション後期合宿と続きます。
9期は12星座、12期は惑星、
それをバイオグラフィーワークでするって
どういうこと?
という疑問が飛んできそうですが
宇宙や天体と、人間とのつながりを見るのに、
すべてが萌え上がるこの美しい季節はぴったり。
楽しみながら準備をしています。
生まれたての痛々しい新芽が、まばゆい新緑となり、今では、すっかり普通の緑になりました。
この変化の流れはとても愉快です。
あれよあれよと過ごしているうちに、鮮度を失っていく、自らの眼差し、あるいは、人と人の「間」にも似ています。その暢気さが可笑しいような悲しいような。
馴れたからこそ見えてくるものもあるけれど、見失っていくものもたくさんある。それは抗えないことかもしれませんが。
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外に向かってひらかれるのこそ 難しい
「汲む」より 茨木のり子
年を重ねるごと、ゆずり葉のように固くなっていく我が身を思いつつ、今年初めて咲いたチコリーの目を射るような青紫を見ています。
楽しみにしていたオイリュトミーの2日間集中コースが終わりました。
体力も気力も落ちてしまったことに気付いた2月、この状態では、3月末のオイリュトミーで絶対に動けないと思い知り、固い決意で池の周辺を歩き始めました。
約1か月、その甲斐あって、足の運びの軽いこと!
動く喜び、動きの中の隅々まで自分がいる喜び!!
次回、夏のオイリュトミーまで
この状態を維持できるよう頑張ろうっと。
体力、気力、失なって、有難さに気づくことが増えました。究極は「生きている」ことでしょう。
死んだのち、生きていたことに気付く前に生きているうちに、生命を大切にしようと思います。
4月初め、「dialog7」の研修と称して
伊勢志摩に行ってきました。
伊勢は私の故郷、それを土壌と呼ぶなら
志摩の海は、私の養分
防波堤に腰を下ろし
足をぶらぶら揺らしながら
見上げる空は晴れ渡り
数多の光を集めて海は広がる。
あゝ、この明るさの中で
紛れもなく、この空気を吸って
私は作られた。
そして
別の場所でその空気を吐いている
というのも、面白い。
バッチ仲間から、
今年もスターオブベツレヘムが
咲き始めたと、花便りが届き始めました。
そういえば、昨年の今頃、
東京・小石川植物園に
オオアマナ(スターオブベツレヘム)の群生を見に行きましたっけ。
地上に散りばめられた星々...
一面に咲き乱れていたのを思い出します。
いよいよBFRP東海の「バッチの読書会」100回記念が今週末に迫ってきました。振り返ればあっと言う間の10年、輪になって、共に読んだ仲間たちの顔が一人ひとり、まるで花のように揺れながら
浮かび上がってきます。
バンザ~~イ!!
無事に100回記念の読書会が終わりました。
世の中に、長く続いている読書会は
山ほどあると思いますが
1冊の本(しかも小冊子)だけを
繰り返し10年読み続けている読書会は
あまりないかもしれません。
おそらく聖書くらいかも。
バッチ使いにとって「なんじ自身を癒せ」は
バイブルなんだってことです。
いつもの顔、懐かしい顔、珍しい顔、初めての顔が
一堂に会し、バッチ三昧を堪能しました。
詳細は、BFRP東海のブログへ
3月
空が明るくなりました。
季節が巡ってくるたびに聴く
春の音
梢の高いところで
風が鳴っています。
小学生の頃、学校の帰り道
ずっと遠くの地平線に、
夕陽が沈んでいく時に
天使の歌を聴いて以来
自然界は、私にとって音楽でした。
ある日、
ソノシートと呼ばれていた
薄いレコードを見つけ
スヌーピーのお話に出てきそうな
小さなプレーヤーで聴いた
モーツァルト
悲しいほどの明るさ、
軽やかで静けさに満ちて
それは、
いつか聴いた
天上の音楽でした。
相変らず、モーツァルトを聴いています。
今週末のBW養成12期でのテーマの準備として。
そういう目的で、
音楽を聴くというのは
邪道ではないか、
そう思いながらも
耳の奥、胸の中で鳴りやまぬ
ト短調の突き抜けるような
明るさと哀しみの
うねりに浸っています。
18世紀後半、
フランス革命以前の時代、
音楽家はまだ芸術家ではありませんでした。
その時代にあって、
音楽で心情を語りだした
モーツァルトの
思いやいかに。
貴族ではない一般市民が
その心情の共有をするには、
もう少し時代が下るのを待たねばなりません。
ぬくぬくと
惰眠をむさぼりたい気持ちを
跳ねのけても
平気な春になった。
毎朝歩く池の畔
同じ場所で、
必ず振り返って空を見上げる。
道に沿って植えられた
若い桜も既に満開。
「今日は好い天気だ」と
中也が『帰郷』に
書いたのが1930年、
それから20年後、
「今日もいちにち快晴」と
18歳の谷川俊太郎は書いた。
そして2019年春
「あゝ、今日もいい天気!」
この素朴で明快なひとことを
人はこの先もずっと
何度もつぶやくのだろう。
ここ原村も、今年の冬は異例の暖かさで、覚悟して出かけた割には、雪も少なくて、ちょっと拍子抜け。本当の寒さは、こんなもんじゃないよ、という声を聞き流して、森の案内人、岩崎さんの後ろをついて歩きます。雪の上に、点々と小動物らしい足跡。まっさらな雪に足跡をつける楽しさは、言うまでもありません。
ストーブの焚き付け用に、落葉松(ラーチ)の小枝を集めながら、ふと見上げれば、落葉松はすっかり葉を落とし、優しい風が木立を鳴らしています。足元を見て歩かないと、凍った雪に足を取られて、転びそうになりますが、しりもちをついても、案外痛くないのが不思議です。
このところ、移住計画の下調べと称して、折々に長野を訪れています。現段階では定期的な仕事もあり、移住なんて全くリアルじゃないと、一笑されてはいますが、まあ、それはそれとして。原村では、たくさんの素敵な方々にお世話になりました。
あっと言う間に1週間が飛び去るときもあれば、一日、一日がスローモーションのようにゆっくり過ぎる時もあります。この時間の感覚は不思議ですね。
先週末のバイオグラフィーワーカー養成コース12期では、プラネットの土星がテーマでした。太陽系の可視の惑星の中では、私たちから最も遠いところにあり、約30年の周期で黄道を一巡する土星。私たちの人生に及ぼす影響としても長期的で、月のように約29日で一巡する天体と比べたら、1オクターブ違う、という感じなのかもしれません。
今回、土星を象徴する著名人として、マリー・キュリーの人生を取り上げました。女の子に、まず読ませたい伝記と言えば、マリー・キュリーの名が挙がるくらい、超有名な女性です。ロシアの圧政下にあったポーランドに生まれ、「女性で初めて」という冠がいくつもついた類まれな人生。彼女の人生の出来事の中に、土星の要素が散りばめられているのを、まるで宝探しをするみたいに、みんなで発見していきます。
それは、まるで、彼女が見えるものの中に見えないものを探し、見えないものの神秘を解き明かしたことに通じます。そして実は、私たち、一人ひとりの人生にも、そっくり当てはまるところが、このワークの魅力です。
こんなはずではなかった。
例えば今年のお正月。
大掃除なし
お飾りなし
インフルエンザあり
すべての予定は流れ
家族みんなで寝正月。
こんなこと、
病気にでもならないと
できません。
夜明け前
木立の向こう
月と金星の神々しいまでの
美しさ。
超低空飛行でスタートした私の2019年ですが、それでも、バイオグラフィーワーカー養成コース、9期では『12感覚』を、そして12期では『プラネット1』を無事終えることができました。
来週はバイオグラフィーワーカーズ・ジュピターの総会が京都でありますから、まだ気を抜いてはいけません。でもつかの間だとしても、ホッと一息つけるのはうれしいことです。
今回のインフルエンザのように、たとえ短い期間でも、一度体力や気力が落ちた後、それがどうやって戻ってくるのでしょう?
1月前半、バイオグラフィーワークで、だんだん元気が湧き、心身ともいい感じになっていくのを経験した時、好奇心や、積極性、人や物事への愛情などが、人生を引っ張ってくれるというのを実感しましたが、ちょっと弱った自分を甘やかして、いつもより自分を大事にしてやるのも、いいもんです。
巷では、まだまだインフルエンザが、猛威を振るっている模様。どなたさまも暖かくしてお過ごしください。
雪の京都、バイオグラフィーワーカーズ・ジュピターの総会も無事に終わりました。怒涛の1月でしたが、こうして予定をすべてこなせてすごくうれしい。ま、青息吐息ではありましたけれど。
今やもう、すっかり元気です。
待ち遠しい2月、立春が過ぎたら、いよいよ移住計画第2弾(?)
夢を描き、計画を立てる。その瞬間が楽しい。